満願




題名:王とサーカス
作者:米澤穂信
発行:東京創元社 2015.7.31 初版
価格:\1,700



 本作は、ぼくにとっては、篠田節子『インドクリスタル』に続く、日本作家による今年のアジアン・エンターテインメント第二弾。アジアンの小説という点で言えば、まず読み手が書き手のようにはその舞台となる国を理解していないこと。なので、まず何が起こっても、それが起こり得そうなものなのか作家の独壇場でしかないのか、検証しようがなく、正直よくわからない舞台設定ということになってしまう。

 なので、リアリズムを追及する作家はその国の現状を、しっかりとキャラクターに見聞させ、感じさせ、語らせようとする。その国家背景については、メインストーリーの面白さとは別に、プラスしてそれなりに興味深く読み手に訴えてゆかねば娯楽小説として成立しない。読み手はその国に何の興味もない方がほとんどだと思うし、説明そのものがつまらなくいつまでも興味を引かないとすると。ページを繰る手が止まるかもしれない。

 ちなみに本書の舞台はカトマンズ。ぼくは仮にも山岳会に身を置いていた身なのでカトマンズという街はことさら身近に感じられる存在であるのだが、こと政治経済状況などの情報的側面に関しては恥ずかしいほどに無知であることを白状せねばならない。

 ヒマラヤへの入口として、クライマーやトレッカーが引きも切らず押し寄せる街。登山やトレッキングの前後に寝泊まりし、食事をし、登山用具などの買物をしたり、ポーターを雇ったり、トレッキング・ツアー・オフィスで受付を済ませたりする街との印象しかない。しかしこの小説では、そうした登山基地の明るい側面にはほとんど光が当てられることがない。

 ネパール王殺人事件の起こった2001年6月のカトマンズ。それだけが際立って照射されてゆくのである。しかしその事変の謎を解こうとまでは欲張っていないところが、この小説の味噌である。

 主人公は今後の自分と仕事のことを憂いつつカトマンズにやってきて、たまたま政変に巻き込まれた女性ジャーナリスト。外出禁止令と弾圧の夜の中で彼女はとある意味深な死体の第一発見者となってしまう。その死体は彼女が少し前に取材したばかりの兵士であり、その裸の背中には「密告者」と刻まれたナイフの傷が目立っていた。

 ミステリ作家としての米澤穂信は本書ではジャーナリストが死体発見をしてしまった殺人事件の真相究明をいかにも著者らしい二重三重の意外性のある形で描き切っている。しかし短編作家として昨年最大の評価を得た『満願』の面影はここにはなく、ミステリ以上に、それを取り巻くカトマンズの人々の現状に興味を向ける。いや、その現状をエトランジェの眼線で心のファインダーに捉えるヒロインの、ジャーナリズムという仕事に対する疑問こそが、本書のテーマであり、ミステリの謎を解く本質にも繋がってゆくのである。その重層構造こそが、米澤穂信的真骨頂であると言えるのかもしれない。

 語られることのおよそすべてに意味がありそうな表現の巧みと、トーキョーロッジに身を寄せる漂泊者たちのそれぞれの行動をフィルターにして謎の深みと政変の現実的重厚感を保たせる筆力にこそ、この作品の長篇たる意味があり、読む価値があると言える。どんなに短い小説でも力作と言えるほどに力と趣向をふるってくれる名人作家が、今回は冒険小説ばりの重厚長篇で持ち味を存分に発揮してくれた。

 逆に言えば本格ミステリとしても、冒険小説としても、十分と言えないくらい国境線のわかりにくい中途半端な匙加減も後味として残らなくもない。評価の分かれる作家的分水嶺といったポジションとなる、ひょっとしたら重要作であるか。『満願』しか読んでいない半端な読み手のぼくは、残念ながらそのあたりのデリケートさを正直測り切れないでいるのだ。

(2015.08.20)
最終更新:2015年08月20日 22:49