グリズリー



題名:グリズリー
作者:笹本稜平
発行:徳間書店 2004.08.31 初版 2004.11.10 3刷
価格:\1,900

 遅れてきた冒険小説作家なのだろう。時代が時代ならこうした作品は目白押しであり、読者たちはどこの書店に行っても、平積みにされた冒険小説の山に心躍らせたことだろう。

 今ではむしろ映画と連動でもしない限り、書店の正面にこの手の作品が並ぶことは難しいだろう。映画にしても、かつてのようなロケ中心のものではなく、悪しきアメリカ文化の野放図な模倣のままに、CG中心の非現実的映像で擬せられた、迫力とスケールを売り物にした大仰な大作ばかりだ。

 ヒギンズやマクリーンやフォーサイスの作品が、ひと頃のスクリーンを席巻した後に、本格冒険小説のブームは日本にもやってきたが、その頃はまた、いずれも映画とは連動せず、書店に、冒険小説の時代を、完全独自に築き上げていた印象がある。

 その頃の日本冒険小説開闢期の作家たちで、今になってもまだ冒険小説を書いている人というのは、あまりいない。どちらかと言えば自然を相手取った大型謀略小説よりも、コンパクトかつ、より親近感の感じられる実世界を舞台に、人間の深部に向けて傾倒するようになった。作家の成熟が見られ、娯楽小説の読み手の要求も、それなりに多様化している。

 本書のように、スケールの大きな本格的プロットを用意して、建築物のような壮大な小説装置を積み上げてゆく作法は、今では少しばかり古めかしいものに感じられる。誰かがこうしたジャンルを書き継がなければならないのだとは思うが、時流という意味では、国際社会の緊張関係は、シンプルな冷戦時の世界構造を既に崩壊させており、より複雑怪奇な代物に変化したために、大衆の価値観も多岐に分かれ、一元的に受け入れられる状況には既にないと言わざるを得ない。

 本書では、世界に君臨するアメリカのエゴに対して怒りを持つ日本人テロリストを、一癖も二癖もある刑事らが追跡してゆく。アメリカのエゴを語る背景に、とある古い国家犯罪の歴史が眠っているのだが、最後の最後までそれを訴えるためのテロリスト側の手段が納得できるものではなく、感情移入できないところが残念である。

 舞台は厳冬の知床山中。それだけが興味の礎で、遅ればせながら手に取った本書である。個人的な動機なのだが、実は知床を舞台に、いつか冒険小説を書いてみたいと夢見ていたことがある。自分でも知床の山に憧れ、羅臼からウトロに縦走したことがある。原生林に野生の匂いがする、日本離れした山岳を舞台に、スティーブン・ハンターや、ポロックをイメージした一対一の死闘小説を、と思ったのが三十台半ばの頃。

 だからずっと意識していた。しかし、この作家を読み続ける間に、フィクションとしてはその作品も出来がいいし、どれも間違いなく面白いのだけど、人物に傾倒し切れないために、どうも最後まで身が入らないという不満が自分の中にい残ってしまうため、内心ではこの人の作品には見切りをつけていたところだった。自分にとっての知床の死闘小説は、他の作家のものとは違うだろうという思いがある一方で、であればこそ、『天空への回廊』という大スケールの山岳冒険小説を書いたこの作家による知床の死闘小説に関しては抑えておきかった。

 ところが予想と違い、知床のシーンはわずかである。しかも知床のごく一部しか登場しないために、『天空への回廊』なみの山岳活劇を期待していた身には、物足りなくもあった。谷甲州のような真っ向山岳小説という泥臭いものではなく、やはり主人公のテロへの動悸付けとして懸命にアメリカへの怒りを説明してゆくところに重心を置いているあたりが、古臭い極左的なグループと結託したり、あまりにもナイーブな、まるで自分探しのような叙情主義的表現に囚われたりと、どうにも作品の目指す部分が、小説全体の言い訳めいていて、胡散臭く思われた。

 これほど面白く、手に汗握る展開でありながら、どこかで好きになり切れない何かを感じてしまう。いつもの物足りなさはやはり、これだけの素晴らしい小説の読後にも残ってしまうのだった。文章表現の秀逸、緻密なプロットなど、これほどの作家、作品であるのに、どうしていつも何かが足りないのだろう。

 そう思うと、きっとあの冒険小説の時代にならば、この作家をもっとずっと受け入れられたのではあるまいかという疑念に駆られる。時代の移ろいに重ねて、自分の好みの変化が、この作家を遅れてきた者のように感じ取らせてしまうのではないか、と。

 しかし、冒険に向かう主人公を作り出す上において、動機づけの巧さという意味では、やはり先達たちに追いついていない部分はやはり多分にあるのではないかと思う。先達たちのナチュラルな動機付けに比べて、いかにも無理矢理で強引な設定である部分、しかもこれが小説最大の謎を解く鍵であるゆえに、こちら側の共感という意味ではとても遠く遥かに感じられてしまうからだ。

 今の時代、最もわかりやすい冒険や犯罪への動機とは、実はカミュの時代に遡るのかもしれない。つまり、最もわかりにくく、理屈から遠のいたところにあるような、説明のつかない動機こそが、本来のリアリズムとして有効でなおかつ共感の得られるものなのじゃないだろうか? それともこだわり過ぎか?

 その点に引っかかりを感じない方にとっては、相当完璧無比な冒険小説であるということだけは、一握の惜しみの感慨ともども、断言させていただきたい。それなりに丹念に作られた苦心の一冊だとは思っています。

(2006/05/28)