特捜部Q -キジ殺し-




題名:特捜部Q -キジ殺し-
原題:Fasandraeberne (2008)
著者:ユッシ・エーズラ・オールスン Jussi Adler-Olsen
訳者:吉田薫・福原美穂子訳
発行:ハヤカワ文庫HM 2013.04.15 初刷 2011.11 初版
価格:\1,040

 前作は池上冬樹解説をベタ褒めしたが、本書の解説を見て首を傾げた。恩田陸という作家(ぼくは一冊も読んでいない)が、劇画のように面白い、と褒めているのだが、ぼくは劇画のようにと言われれば、けなされているかのように感じてしまった。今どきの作家は、劇画のように面白かったと言われて嬉しく思うのだろうか? 

 劇画をどうのこうの言うつもりはないが、荒唐無稽とか、誇張がすぎるとか、展開が派手だとか、活劇アクションが楽しい、という意味で、恩田陸氏はこの表現を使ったのだろうか。それであれば、いろいろな小説が、劇画のように見えると言われても仕方がないことなのだろうな。でも確実に言えることは、小説は劇画ではなく、劇画は小説ではない。似て非なるものは、あくまで非なのである。小説を褒めるときには、誤解を招くような幼児的メタファーではなく、ましてや作家を生業としている人ならば、小説家としてのプライドを持って小説評論というべき文章にて作品を取り扱って頂きたかった。何だか、とても残念な解説であった。

 さて、本書が劇画のようにと評されたのは、多分二つの要素にあると思う。狩猟趣味が嵩じて人間狩りを楽しむようになったサディスティックなグループ。しかもそれらがエスタブリッシュメントの人間たちであったらというケース。さらにはそこから絞り出されたたった一人の女性メンバーが、獲物を求め藪の中に潜伏する獣のように、都会の闇の中に身を潜めて牙を研いでいたら。

 実際、本書ではそうした二種類の無法側の陰の世界が、関連性を明確にせぬままにストーリー世界の幅を広げてゆく。一方で、陽の部分は、相変わらずカール・マークというくたびれた冴えない中年男と怪しげなシリア人がホンキートンクで噛み合わない交流を繰り返しながら請け負ってゆく。いや、本書ではさらに黒づくめの女性秘書ローセが登場する。一年中喪に服したような根暗女で、社会性に乏しいというあたりが伺え、特捜部Qはさらにネガティブ要因を抱えたままであくまで人間的に陽の部分を引き受けてゆくのである。

 この作品の犯罪要素を構成するいわゆる特権階級のマン・ハントであるが、この手の物語の原型と言えば、ギャビン・ライアルの名作『もっとも危険なゲーム』である。殺しをゲームとして遂行する、というバイオレンスの極地のような犯人像。その亜流となった物語は、小説でも映画でもたっぷり存在する。人間の暗闇に向かったネガティブなエネルギーがこうした方向に向く物語は、まるで神話と同じようにあるべきストーリーとしてもはや社会的に認可されているようなものではないか。外人部隊や傭兵などの戦争なくしては生きられなくなった人間の存在が実際にあることも、残念ながら人間として受け入れざるを得ない真実ですらあるのだ。

 しかし、なぜ女性ハンターであるキミーが組織を抜けねばならなかったかの物語は、また別の女性特有の悲劇にある。女性の場合恋と青春を奪われた男によってその後の人生の選択が影響されることが、物語においても実際の人生においても多いのではないかと想像される。パートナーがどんな人間であったかは男女別なく重要な人生の要素ではあるけれど、どちらかと言えば劇的被害を受ける確率は女性の方が遥かに多いように見える。かくして生まれた悪魔のような女性キミーは、一面において天使のようでもある。女性の母性を抱え込み、失われた愛情への一念で彼女の生命エネルギーは彼女の失われた未来を生かしているかのように見える。

 特捜部Qの人間模様と、それを上回るほどの犯罪者、あるいは被害者を取り巻くドラマとが交錯したときに、白熱する物語エネルギーを、このシリーズはどうやら売りにしているようだ。追われる者も隠れる者葛藤する地獄を抱え込んでおり、それらが北欧の国を舞台にぶつかり合う様子を、今回も素晴らしい力技で活写してみせた作者の変わらぬ力量に、今、ふたたびの拍手を!

(2013/07/08)
最終更新:2013年07月08日 13:39