真夏の方程式




題名:真夏の方程式
作者:東野圭吾
発行:文藝春秋 2011.06.06 初版 201.06.10 3刷
価格:\1,619



 『容疑者Xの献身』には、泣けた。ガリレオ短編シリーズにしても、物理ミステリーを標榜しながら、しっかり人間ドラマが描けていたので驚かされた。時に、理系出身とは思えぬほどの凄みを帯びた文学的なミステリを生み出すこともあった。『百夜行』『幻夜』は凄みさえ感じる。また加賀恭一郎シリーズは、東京下町の人情ミステリにより、個性的で魅力的な市井の人々を数多く造形してきた。ミステリ畑の天才作家であり、売れっ子作家。それが東野圭吾である。

 しかしなぜか少しだけ歯がゆい思いがするこの頃である。どの小説も、アイディアは素晴らしい。でも、どこかで、薄っぺらな印象を覚える。この作家が術に溺れている部分を、ページの隙間からどうしても感じ取らないわけにはゆかない。人間優先でストーリーを紡ぎ出してゆく気持ちは、正しいと思う。上手くいっていると思う。ストーリーテリングも一流だと思う。でもこの歯がゆさはなんだろう。面白すぎる? 出来が良すぎる? 百点満点のつまらなさ、みたいなものを、ぼくはどうしてもこの作家に感じる。

 そう、ぼくには少しひっかかる部分がいつも残る。それは、あまりにも大衆的で、平板化した、特徴のない文章だけで綴られる、いやらしいほどの読みやすさだ。一切のレトリックを廃した、単純至極な文体だ。純粋培養された無菌状態の文章だ。時には、口語体かと思われるほどの、マイルドでけれんなき文章だ。音にすれば、まこと、聴きやすい言葉だ。すべてが、ただ説明されているだけであるように見える個性のない文章だ。論文よりもさらに非文学的に感じられるほどに、あどけない、ある種、国語テストの解答集と言ってもいい言葉たちによって綴られるからこそ、人間の側の毒性が消えて見えなくなってしまうのだ。そう、この作家には、毒が足りない。登場人物たちには毒が足りない。整理された情緒があっても、乱雑で撮り散らかされたままの救いようのない情念は、どこにもない。

 あくの強さは、そう、どこにも見えない。善人ばかりが席巻する能天気な空間しか見えない。青い空と、青い海原ばかりが、コンパスで引いたような水平線を限っている。だからこそ、そこで果てしもなく明るく闊歩する湯川学という非現実的にして、とてもデフォルメされた探偵像が、なぜか活き活きとして、見える奇妙な世界なのだ。

 本書は一部、子供の眼を透して見つめる、一夏の経験といった物語である。子供にとっての海辺の田舎町・玻璃ヶ浦の夏休みが、様々なイベントで埋められてゆく構造だ。多忙な両親に対し、抵抗、および愛情の飢餓感を、隠し持った少年・恭平。訪れた町・玻璃ヶ浦では、華々しいシンポジウムが行われる。観光不景気からレアメタル発掘景気へと乗り換えようと夢を追う町の商売人たちの願望、それに対し、美しい海を守ろうとするナチュラリストたちの対立が町の空気を支配している。そんな光と影に満ちた夏の海岸、寂れた、とある旅館を中心にして、起こった殺人事件。被害者は元刑事。彼が死んだ理由は何だったのか?

 町に群がっている様々な人々の眼を透して描かれる、ひとつの殺人と、死んだ刑事の過去。人と人がどう結びつき、時代と時代がどのように隔てられ、誰と誰が同じ過去を共有してきたものなのか? 堅く結索された結び目をほどくように、ガリレオこと湯浅、地元の刑事、県警、そして警視庁本部の草薙・内海コンビが動き回る。よくできた構成だし、よく作られたミステリーだ。結末は予想できると思う。少なくともぼくには容易に予想できた。ストーリーの枠さえも。そいつが、本書の最大の欠点かもしれない。これほどのファクターを一場に集めたにもかかわらず、それが仇となった感さえ残すトリック・サスペンス。

 本書は映画化され封切られる日まで一ヶ月を残している。映画化作品はきっといいものになるだろう。そう、想像がつく。主要な舞台がガリレオの旅先である玻璃ヶ浦となることで、ロケ地はさぞかし美しい映像を拾い集めたものとなるだろう。そして、ドラマや映画によって、読者の脳内でまで固定化されてしまった常連たちの顔。湯川はもう小説界であっても福山雅治でしかなく、内海は柴咲コウでしかない。ちなみに、キャスティングの関係上、柴咲コウ演ずる内海薫は映画には出演しない。女刑事は吉高由里子演じる岸谷美沙となっている。本書には登場していない女刑事なので、ドラマに合わせたことが明らか過ぎ、キャスティングの都合おあったのだろうが、何となく残念。

 何度も言うようだが、物語としては完璧。色合いは『容疑者Xの献身』と相似形の愛の物語。ただし、形と環境を変えているために、自作盗作(焼き直しと言ったほうがいいのか?)とは、微妙に言えない。以上、どうもぼくには引っかかるところが多い本作なので、素直には「良い」と言い切れないし、「好き」だとも絶対的に言えないのだが、面白く大衆受けするだろうことは、これも絶対的に否定できない。ぼくの中では何となく、面白いが、嫌いな作家、という括りになりそうな最近の東野圭吾事情なのである。ああ、複雑!

(2013.05.28)
最終更新:2013年05月28日 20:57