シャーロック・ホームズ 絹の家



題名:シャーロック・ホームズ 絹の家
原題:The House of Silk (2011)
作者:アンソニー・ホロヴィッツ Anthony Horowitz
訳者:駒月雅子
発行:角川書店 2013.04.30 初版
価格:\1,900


 さて、難物が角川書店から届いた。献本有難うございます。しかし、それにしても80年ぶりのシャーロック・ホームズとは! かつて小中学時代に夢中になっていたヒーローの物語を、この歳になって読むことになるなんて全然予測していなかった。この意外な機会にどう立ち位置を取っていいのやら面食らう思いでいっぱいになりながら、ぼくはこの本のページを開く。

 君はルパン派か、ホームズ派か? これは、ミステリ・ファンの趣味を判断するときに試してみたりする質問の一つとしてよく使われるものであるけれど、ぼく自身に問いかけてみれば、ぼくはどちらかと言えばホームズ派なのかな。ルパンの物語も滅法面白かったけれど、スリルやハラハラ感が重すぎてきつかった、というのが当時の感覚である。ホームズの方は、短編が多く、その密度感はあるものの、まだ活字体験初心者い近い年齢にとっては、割と気軽に手に取れる物理的にも価格的にも親密感の感じられ、アプローチがしやすかった、という程度のことだったと思う。物語や作品世界の好みということであれば、どちらが自分の好むスタイルなのかとなると、今持って判断し難いところがある。

 君はルパン派か、ホームズ派か? という質問に対し、ルパン派は冒険小説の畑でドラマチックで行動的な物語が好み、ホームズ派は本格推理の代表みたいなもので、室内でパイプをくゆらせながらの謎解きというイメージが湧きがちである。冒険小説&ハードボイルドフォーラムをニフティでやっていた頃、冒険小説はルパン派で、推理小説はホームズ派だ、との意見傾向は確かにあったと思う。その意味では、本格推理がさして好きでもなく、冒険小説よりは、むしろ警察小説やハードボイルドなどの、人間対峙の構図そのものが物語となってゆく分野が好きだったぼくはどうなのだろうか。ホームズ? ルパン? いや、そのどちらでもないし、部分的には、どちらでもあり得るのか、という、せいぜいお茶を濁すくらいの結論になってしまうのも事実。中学時代にはマイク・ハマー派だった、とか87分署派だったなんて人も実際にいっぱいいたくらい。人間や作家を単純化すればどこかで綻びが出るというもの、である。

 さて、本書であるが、ドイル作品に関する著作権の認定管理をしているコナン・ドイル財団が公式に認定した初のシャーロック・ホームズ続編ということで、それなりに読書家としては血が騒ぐ本ではある。少なくとも、かつて中学時代にホームズを全作読んでいるぼくのような世代にとっては。そうでない人がこの本を手に取ってどう受け止めるのか、ぼくにはよくわからない。例えば映画化されたシャーロック・ホームズについて言えば、いずれの時代の作品にもついてゆけないできたぼくには、ホームズを知らない世代が映画をどのように楽しめているのかも、よくわからない。無論、この本との出会いを機に、最近のホームズ映画にも好奇の眼を向けようという心情は生まれ出でつつはあるのだが。

 さて、最初に、本書を難物と書いた理由である。それは一言で言えば、時間的な隔たりだ。この本を読む時間と、かつてホームズを読んだ時間を隔てる半世紀近いぼくの中の時間の。もちろんこれを書いた作家ホロヴィッツはさらなる客観時間である80年間の隔たりを縫い合わせてみせねばならなかったのだが。

 ホームズの新シリーズに当たる本書には、過去の作品の登場人物やエピソードがたっぷり出てくる。にも関わらず、ぼくはそれらの昨日今日に読んだわけではない記憶を、薄霧に包まれたような過去への分厚いカーテンを透してしか視ることができない。ましてや記憶を引っ張り出すためのヒントとなるであろうドイルの本が手近に一冊でもあるわけじゃない。なので、様々な登場人物をネットによって改めて調べ直し、作品の数々をざっと見渡してみることしか当面のぼくにはできなかった。それでも、さすがにインパクトの強い一時期に読んだシリーズである。印象的なホームズ最後の事件についても、彼の復活にしても、他の印象的な長編作品たちにしても、よく思い出すことができるのだ。名作に万歳!

 本書を読む限り、あの頃手にした文庫本のホームズに比べると、随分と大人びた世界の、大人びた悪徳の物語をよくぞ作り出したものだなと思えるし、これに対して管理財団が寛容にもOKを出したもの、と思われるのだが、本書の対象は少年たちではなく、かつて少年だった我々のような世代の読者を対象にしているものなのかもしれない。そもそものホームズがどの世代を対象に書かれていたものなのかは、今のぼくにはよくわからないが、ぼくの中では完全に少年を魅了するシリーズとしての印象が強すぎるために、この違和感に最初から捉えられてしまった次第。内容は、現代小説に比しても相当残酷で非情極まりない。時代背景も舞台となる世界も、リアルなほどに暴力の匂いが充満し、文明的退廃の匂いすら感じられる卑しき街なのである。

 気品、退廃、貧富の差。かつてのホームズ作品からは、あまり感じられなかった、否、少年の目を通してはわかり得なかったのかもしれない大人たちの闇の部分に、果敢に挑むホームズとワトスンの二人の姿を、大人の目で見つめなおすことで、現代を見つめ直す眼差しのあり方のようなものが、この作品によって喚起されれば良いのかもしれない。シャーロック・ホームズという奇人でもあり、天才でもある人間と、それを書き留める伝記作家・ワトスンの有する細やかな人間性との、両方の繊細が改めてじっくりと書かれた、謎解きばかりではなく、人間性重視の新ストーリーに仕上がっているのが、この主人公の新たな軌跡となったのだと言ってしまってもいいだろう。これまでホームズを全く読む機会がなかった人にとって、本書がシャーロック・ホームズという魅力的で多くの少年少女を虜にした探偵小説に接する何らかのきっかけになってくれることを、かつてこのシリーズに夢中になったことのある少年だったぼくは、願ってやまない。

(2013.05.16)