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アンダーグラウンド




題名:色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
作者:村上春樹
発行:新潮社 2013.4.15 初版 2013.4.25 5刷
価格:\1,700



 何故、村上春樹の新作発表の度、書店に行列ができるのだろうか? ぼくは行列のできるラーメン屋の存在価値がなかなかわからない人間であるけれど、同様に、村上春樹の新作に行列ができる理由もよくわからない。作者は『1Q84』が売れた時だったと思うけれど、誰も書かないことを書いていることが人に読まれる理由ではないのかと、彼自身は、純然と思ったのだそうだ。

 なるほど。しかし実を言うと、ぼくは決してそうは思わない。誰も書かないことではなく、彼は、誰もが書いていることを書いてるのだと思う。人生と死と恋愛の謎を解く。そういったテーマに固執する当たり前の一般の人間の、すごく自然な好奇心が、彼の小説の主人公を決定し、小説世界で動かしているのだと思う。逆に言えば、それ以上の原動力や、それ以外の個性を、彼の作品の登場人物から感じることは滅多にない。そう言う意味では、物事に対し受身で慎重な姿勢を取る主人公が多く、自ら何かの課題を超えてやろうとか、ある事件を主体にしてその問題を解決しステップアップしよう、というような、果敢で前向きな主人公はあまり見たことがない。

 むしろ、問題を起こさないために日常生活に徹底した規律を持ち込み、清潔感たっぷりな独身男性で、あたかも純粋培養されたみたいな日常生活を営む人の方が、よほど村上春樹の好む人物像らしい。性格にとりわけ瑕疵はなく、弱さもない代わりに、特に目だって優位なところもない。逆に言えば、とてもとても強く、他人に影響を受けず、マイペースを貫くことのできる主人公が、彼の作品には多いように思う。この小説でも、多崎つくるは、人との関わりに受動的で、自分の日常を守ってこつこつと生きる。炊事・洗濯・掃除・ベッドメイク、果てはシーツにアイロンをかけたり、ということまで規則正しく行うような人である。人と異なる点といえば、駅を作りたいという理想を実現し、駅を設計するという実にニッチな職業に見事に着いたということだ。ある種、夢の実現者なのである。サラリーマンになることを嫌い、学校を出るとすぐに喫茶店の経営という道を選んだ、ジョギング好きの村上春樹が、いかにも考え出しそうな少し世間離れした主人公だ。

 どの主人公も、実はすべからくその種族であるところに、彼の主人公が、具象ではなく、もはやそんなものには因われず、抽象に生きる、即ち、人生と死と恋愛の謎を解くことに終始することができる環境、という共通項が見えてくる。この作品もそうだけれど、彼の作品には、人生の謎に対する疑問、死、そして恋愛が必須だ。死んでいった者への謎、今、空白として残されてしまう、心に開いた何もない穴への意識の執着である。初期三部作である『羊をめぐる冒険』での主人公の親友・ネズミの役割は、死と不在であった。また、『ノルウェイの森』は、死で糾われたポルノグラフィと言ってもいいくらいだった。そう、その意味では、恋愛あるいはセックスは、死の対極にあるもの、生きる意欲の側の抽象を具現化した行為である。それらを散文に落とし込むときにも、直感的に人が死という虚空に背を向けたくなるときにも必要な、セックスは具象であり、揺らぎなき絶対性を持った行為なのである。

 よって彼は、死とセックスの物語を紡ぐ。そして死の方からひたひたと暗い水路に寄せてくる、闇からの使者たちは、やはり村上ワールドお馴染みのものだ。それはあるときにヤミクロであったり、TVピープルであったりする。それらは、悪夢の中で見る、妙に現実性を帯びたファントムたちである。それらは、最初から自分の心の中に潜む、暗い、マイナスで、ネガティブな志向を、代表する者たちのようでさえある。それらは本書では、夢という形をとって現われる。金縛りの状態で、主人公に、強い心的障害を残すような形で。自分への疑念を植え付けるような形で。容赦なく。

 どの小説においても、そうした暗いものへの共通項らしき心象風景が見られる村上作品ではあるけれど、作者の経験、年齢が作品にわずかながら影響を落とし始めたのは、地下鉄サリン事件の頃だったのではないか、とぼくは思う。『ねじまき鳥クロニクル』を書く少し前、マイケル・ギルモアのノンフィクション『心臓を貫かれて』を訳した頃のことだ。

 抜き差しならぬ現実のバイオレンスや、それによって現実に生じる被害者たちの存在が、彼のヤミクロたちを、想像の産物から現実の悪霊、のようなものに引き上げていったのではないか。そのことを認識する年齢に到達するために、哲学者の表情をどこかで有して超然としてきた村上春樹という作家は、人一倍時間を要したのではないだろうか。地上の一人となって我々のもとに降りてくるために。

 どこか成長に時間のかかる純粋培養されたような主人公が多いのも、彼らがセックスや実業の世界や家族の問題であまり問題を抱えていないのも、恵まれた環境を自分で作るだけの器用さを具えた作家ならではの、彼らは分身であり、相似形ではなかったのか、というぼくにとっては羨望めいた類推。しかしどんな平常な人間でも魔の入口に遭遇することは有り得るのが現代であり世界だという認識。それらが村上ワールドを成長させ、普遍化してきたものだったのではないか。でも、だからと言って、なぜこの作家がこれほど驚異的に売れるのだろうか、という疑問への回答には全く辿り着けずにいるのだが。

 ぼくはこう思う。この作家の小説は、ストーリーにおいて極めて面白いわけではなく、展開が早いというわけでもなく、語り口のテンポが良く極めてスリリングであるというわけでもない。むしろストーリーテリングは、拘り始めると、実に鈍重で、ストーリーの足を止めてまで、抜けられなくなる抽象の部分がとても多いように思う。哲学書や、大学の裏門近くにある古書店の書棚に並ぶ小難しい芸術評論みたいな世界観を、無責任で個人的な感性と、たぐいまれな文章表現力という固有の才能によって、散文という芸術領域に落とし込んでいるだけではないか、と。

 そう、この作家はとても陳腐なこと、ではあるけれど、人間なら誰もが陥るであろう、人生と死と恋愛の謎について、即ち人間生活の軸になるベース的なものへの追求を決してやめることなく、普遍的にそうした疑問への回答らしきものを表現するために、己れの持つ様々なバリエーションを文章という技術で表現するというシンプルな様式の作家なのであろう。実は、そのブレのなさこそが、社会的信用を勝ち得、けれん味のない希少な作家としての立ち位置を確保した理由なのではないか。その文章技術の素晴らしさこそが、この作家の最大の能力であり才能であり、そこに書かれていることへの回答は人間のベースの謎であるからこそ与えられることなく、普遍であり続け、読者は、常に謎めいた部分をそのままに、どこか妥協した形で今日以降の人生、あるいは村上作品の新しい世界に向かい合う、という心境になって各作品毎の読了を都度迎えているような気がする。

 そう。普遍性と文章表現能力。それが村上春樹最大の武器である。謎は謎のまま次に持ち越されるのをわかっていながら、我らは次なる謎を求める以外に道はないということなのではなかろうか。

(2013.05.13)