黒龍の柩





題名:黒龍の柩 上/下
作者:北方謙三
発行:毎日新聞社 2002.9.10 初版
価格:各\1,700

 「新選組」「五稜郭」「土方」というキーワードがヒットするとぼくはその作品を読む。何度函館にある土方最後の地を訪れたことだろうか? 木古内から松前にある戦場跡はいつも海風に吹かれている。江差の港には復元された開陽丸が浮かび、同サイズのその艦に乗り込むと、海から引き揚げられた当時の開陽丸の備品やら、海軍兵士らの装具などが展示されている。ぼくはそれらを見るとまだ遠くない歴史、そう堆積してもいない時間の層を見晴るかすことができるように感じることがある。

 ぼくが土方歳三や榎本武揚に強く興味を抱いたのは30年以上も前のことだ。父が函館育ちであり、五稜郭の近辺に住んでいたこともあると思う。本をよく読んだ。印象というより、ぼくの幕末の歴史観を築き上げてきた本の中から特にインスピレーションを強く受けた本は、安部公房『榎本武揚』、司馬遼太郎『燃えよ剣』、佐々木譲『武揚伝』である。そして不思議なことに他のもろもろの司馬遼太郎のエッセイなど。さらに強烈に影響を受けたものは、反戦作家五味川純平であり、後の太平洋戦争に向かう軍国主義の遠因を作ったのが、この間違った維新であったという説。司馬と同じ歴史観を見ることができた。

 先ほど挙げた作家たちも、北方も皆どこかで共通した歴史観に貫かれていて、ぼくには何ら違和感のない読み物としてこれらはあるように見える。武揚、慶喜、海舟らの人物像の描写はそれぞれ作家によって捉え方が強烈に違うのだけれども、こと土方と竜馬と薩長のスタンスとなると、どの作家もほぼ同じ描き方をしている。「独立国」ということがまずあり、夢がある。ぼくの幕末観にはこの印象だけがひたすら強烈にある。30年以上も前から。

 本書『黒竜の柩』はだから取り立てて違和感のある小説ではない。幕府に代わって民主になったのではなく、蕃が天下を取り、列強がその存在を認めたというもの。列強にしてみれば鎖国が終わり通商が始まり、列強同志の間に血が流れなかったので盤万歳の結果であった。しかし、日本はその後、清や露西亜と戦い、鎖国の変異した形とでも言うべき帝国主義へと突入してゆくわけだ。天下の交代があっただけで、貧国や民衆の犠牲という構図は何ら変わらなかった。

 悪戯に維新は良いことだったとばかり言えない歴史の暗部を抉るからこそ、作家たちには存在価値があるのだ。まぎれもなく会津や函館の朝敵たちは犠牲者であり日本人であり、新選組も含め、ヒエラルキーの最下層の者たちだった。士農工商の土台が崩れつつある段階で武士たちが主導で展開した維新の中に、地方郷士や商人の出身である近藤や土方という化け物的な武士たちが生まれた。

 さらに北方の作品ではその裏に生きる個人が多く登場する。謎めいた存在である九兵衛は重要な役どころだし、加右衛門ら公儀御庭番たちの存在も極めて重要であり、北方の歴史創造力の要だ。歴史に名前が残された存在は確かにほんの一部に過ぎない。多くの創造力を羽ばたかせることができるのが歴史小説という分野なのだということを否応なくわからせてしまったのが本作の最大の凄みだったろう。

 思えば佐々木譲の『武揚伝』はよりリアルで、そっけないほどに冷たくむごかった。その意味では北方の土方は最後まで夢があり、まるで佐々木譲の『黒頭巾』や『五稜郭残党伝』のように胸のすくものがある。

 逆に山南と近藤の死に方、原田や永倉の描き方は、これまでの大河小説ではあまり味わえなかった見解であり、相当に独創的であった。甲鉄艦の譲渡契約と小栗の関連の下りにしても、甲陽鎮撫隊の意味付けなども、懇切丁寧に書かれており、ぼくには鮮やかな紐解きのように見えた。いろいろな意味で大きな小説である。夢、独立国というところに最終的にポイントを絞ってくれたのは、冒険小説ファンとしてはやはり大変に有り難い。

(2002.11.28)