あの夏、エデン・ロードで




題名:あの夏、エデン・ロードで
原題:At the End of the Road (2011)
作者:グラント・ジャーキンス Grant Jerkins
訳者:二宮馨
発行:新潮文庫 2013.02.01 初版
価格:\670

 若い書き手の二作目ということだから、読みにくいのかな、と思った。プロローグで、50歳にしか見えない37歳の薬中女性が死のうとしているシーンが紹介され、話はいきなりジョージア集のエデン・ロードという、概ね3km程度しかない子供にとっての全世界へと移る。そこは、砂利道と、とうもろこし畑と、老いて攻撃的になっている荒くれ牛の放牧された牧場、数える程しかない田舎家、オアシスのような木立に囲まれた緑沼くらいでできた小さな世界なのだが、それがこの小説の舞台である。

 子どもの眼線で描かれる小説は、およそ二つに分かれる。子供らしくおおらかで自由で夢あふれる冒険の物語か、暗く陰鬱な大人や怪物たちの怖い世界を盗み見ながら多くの苦難を背負わされる試練の物語だ。もちろんそれら両方が適当にブレンドされていることもあるが、傾向としては陽か陰かのどちらかに分かれることが多い。この小説は、まぎれもなく後者である。ジョー・R・ランズデールの『ボトムズ』のような世界である。いわゆるディープサウス、深南部と呼ばれるランズデールの世界と共通する、夏の汗の臭いに満ちた世界である。

 舞台に最初に登場するのは、網目模様の女である。主人公である10歳の少年カイルが自転者を漕いでいると、彼との正面衝突を避けようとした猛スピードの車が横転。割れたプロキシガラスの向こうからは、顔面に網目状の血を流した若い女性が現れ、カイルに助けを求めてきたのだが、カイルは怖くなって自宅に逃げ帰ってしまう。二日後に、女性黒人警察官のデイナが自宅に姿を見せ、メロディという娘が行方不明になっているので目撃していないかと質問してくる。一家は否定する。カイルも。

 カイルには二人の粗暴な兄と、一人の愛くるしい妹がいる。両親は離婚を考えているのだが、それをカイルは知らない。

 カイルには三つの怖いものがある。地面に時折り転がっていて触ると爆発する雷管、近隣の不良少年トリオ、牧場の老いた荒くれ牛である。

 すべてが敵であるような子供世界の中で唯一の見方が妹のグレイスであり、父や母にもあまりカイルは本当のことを語らない。

 この家庭では子供の過ちに余程の体罰を加えるのだろうかと疑われるくらいに、カイルは叱咤を避け、嘘をつき、親を避ける。そのあたりの独立心などは、この風土に生きるために必要な生存本能なのかもしれない。そう思わせるほどに、人間以上に、この風土、この地帯、このエデン・ロードを囲む少年の全世界は、物語の主体であるかに見える。

 前半では滔々と少年の世界が書かれ、少年の苦難や不安や緊張が描かれる。あるところを境に少年にも少女にもより真の試練がやってくる。怪物の存在である。

 その怪物がその程度異常で、どの程度残酷で、どの程度暴力的で、どの程度狂っているかを、少年も読者も最初はわからない。しかし、徐々にその実態がわかってくる。網目模様の女の運命がわかってくる。女性警察官デイナの捜査が事件の軸に近づいてくる。しかし、誰も彼もがもう少しのところで真相にぶち当たらず、少しだけずれてゆく。そのズレを知っているのは読者と作者だけである。どこにも名探偵は存在しない。

 痒いところに手が届かない苛立たしさが螺旋状に組み上げられ、不快と不安と緊張が頂点に達した時、物語は突然の収束を迎える。そして結末は、プロローグの謎に答えを与える。

 痛快さもなければ、安堵もない。一体何が行われたのだろう、と思われるほどの謎めいたこの土地の過去が多く土中に埋められ、あるいは沼の底に沈められ、山になり、汚泥になり、その謎を掻き回したままに、上から舗装される。幾年もの年月を経て、今では整然とした宅地と化した現代のエデン・ロードが残される。皮膜のように覆われた平和の底にかつて怪物がいた記憶を残して。

 杉江松恋氏が解説で書いているように、確かに作者の筆はかしこでぶれる。突然キャラクターのその後、末路までを語ってしまったり、突然物語の視点を少年から親や警察官に移してしまったり、時間を巻き戻してしまったり。その決して少なくないストーリーのぶれが、若書きのせいか、とも思える一方で、作者の独特の意図した筆使いなのかなとも思える。

 一作では評価は下せないまでも、トマス・H・クックのような叙情のオブラートに包むわけでもないこの手の小説作法の独自さに、少なからず驚きを感じさせられたのは間違いない。あまり何度も体験したいと思う世界でないことは確かであるのだが……。

(2013.05.03)
最終更新:2013年05月03日 16:00