刑事マディガン




題名:刑事マディガン
原題:The Commissioner (1962)
作者:リチャード・ドハティ Richard Dougherty
訳者:真崎義博
発行:ハヤカワ・ミステリ 2003.11.15 初版
価格:\1,500

 拳銃を奪われた刑事が、第二の犯罪を防ぐため、その拳銃の奪回にやっきになる。そんな構図が、刑事モノで一体どれだけ使われただろうか? 黒澤明映画『野良犬』の、まだ若かりし三船敏郎が、汗を拭き拭きぎらぎらした表情で捜査をするイメージが、ぼくの中では一番である。でもそれだけじゃ足りず、どんな警察シリーズでも、この構図は必ず何度となく浮かび上がるし、それは現実の日本の犯罪史にも実際に起こってしまった。

 本来それだけの作品である、というイメージを持っていたのが、『野良犬』同様『刑事マディガン』。映画では、敬愛するドン・シーゲル監督のものとて、非常に楽しく見せてもらった記憶ばかりが残るが、詳細は忘却の彼方。テレビドラマ化された『鬼刑事マディガン』と重なるリチャード・ウィドマークの少し悪役めいた面構え、その存在感ばかりが、いつまでも印象に深かったりする。

 ところがこの原作本を読んで驚く。これはエンターテインメントなのだろうか? と思わせるほどに精緻で、熱の入った高密度描写に、少々辟易する。しかも主人公はどう見たってマディガンではないのである。原題は、マディガンではなく、Commissioner、つまりここでは「市警本部長」なのである。映画ではヘンリー・フォンダ演ずることろのラッセルの方だ。

 それにしたって市警本部長だけが主人公かと言えばそうとも言い切れない。60から70年代に渡って流行ったニューシネマの系譜で見られるタイプ、例えば『狼たちの午後』のように、主人公があるようでいながら、少し派手目な犯罪を社会現象的側面で扱った、群像小説と見えないこともない。一方で主要登場人物たちにおいては私生活、家族、経歴、その他、これでもかというばかりに描写が深い。警察官であることによる公私バランスの悪さ自体がドラマとして扱われている。

 市警本部長の愛人との二重生活、警部組合のパーティを舞台にした、悲喜こもごもの男たちや女たちの愛憎劇。いくつものホームドラマの集積のような小説構成。もしかしたら、この物語の主人公は、NYPDという組織そのものであるのかもしれない。この巨大なタイタニックに乗り合わせた乗客のような警察官たちとその人生。

 だからこんな風に面食らったのだ、ぼくは。これは一体エンターテインメントなのか、と。作家リチャード・ドハティは、基本的にはジャーナリストであったそうである。後半生はメトロポリタン美術館の副館長までつとめたという。そう聞けばこの物語の大仕掛けである部分、ユーモラスなまでの客観性、皮肉、収拾のつかない散漫性、多くの風変わりに見えた構図の謎が少しだけ解明するような気がする。

 アンチヒーローという言葉がこの時代に既にあったのだろうか。その意味では、刑事マディガンの造形については、とても冒険的な試みであっただろうぼくは思う。それほどにニューシネマの匂いが強烈に感じられる一冊であったのだ。

 ちなみに映画化作品のほうはアメリカン・ニューシネマの代表作とは呼ばれていないが、脚本家自体はエイブラハム・ポロンスキーという名のニューシネマ作家である。ポロンスキーは『夕陽に向かって走れ』の監督でもある。

(2004/01/02)
最終更新:2013年04月28日 11:26