危険がいっぱい




題名:危険がいっぱい
原題:Joy House (1954)
作者:デイ・キーン Day Keene
訳者:松本依子
発行:ハヤカワ・ミステリ 2005.7.15 初版
価格:\1,000


 ポケミス名画座の企画は、まだなお続いているようである。ジム・トンプスンの『鬼警部アイアンサイド』をTVドラマにも関わらず名画座のひとつにカウントしたあたりは、さすがにハヤカワも苦しいかと思われたのだが、まだこの企画がこうして続いているところは、素直に喜ぶべきことだと思う。

 何よりもこうした企画でもなければ世に出ないであろう古い作品の和訳が、今改めてこうして手に入るというのは、読書家にとって至福である。ぼくがこのシリーズをこだわって読んでいるのは、古い時代の作品、はたまた日本で翻訳されたことのない古い作家との新たな出会いに、ぼくなりの大きな意味を見出しているから。中には思いもかけぬ拾い物だってある。

 そして何よりも、知らないでいたある時代の娯楽小説群を通して、その時代の気風のようなものが確かに感触として体験できる喜びは、何ものにも代えがたい。古くても、小説の持つそうした力は、時代を超えて、国を超えて、こうして求める者の手元に落ちてくる。

 さて本書、アラン・ドロンの『危険なささやき』(マンシェット原作)と『太陽がいっぱい』(ハイスミス原作)を足したようなタイトルからは、当時、いかに日本の映画館で、ドロンという俳優が人気高く、フィルム・ノワールの旗手であったかが伺えると思う。『危険がいっぱい』は、当時のノワールの売れっ子ルネ・クレマン監督により映画化。ジャン・ピエール・メルビル監督ともども、当時、ローカルな映画館で梯子して見て回ったのフィルム・ノワールの代表格だ。

 そうした映画によって印象付けられた記憶をいい意味で裏切ってゆくのが、この「ポケミス名画座」である。例えば『刑事マディガン』は原作には映画にはないディテールの味わいが鋭かったし、『狼は天使の匂い』は、映画(ルネ・クレマンのリリシズム溢れる映画だった)と原作であるグーディスの安手なピュア・ノワールはそれこそ別物で、どちらもそれはそれで秀逸という意味において奇跡的ですらある。本書『危険がいっぱい』も、ルネ・クレマン味付けのコメディ調映画とは全然違った味わいだ。

 ノワールの書き手らしく、確かにこの作家の持てる巧みな表現術を、胡散臭い空気のようなものが包んでいる。ゴシック・ホラーめいた大きな屋敷と未亡人という設定。主人公も未亡人もそれぞれに怪しげな過去を匂わせるが、ファム・ファタールものというには、今いち未亡人に対しのめり込めず距離を置く、醒めた主人公の心情を皮肉交じりに描きいてゆく。どこかドライで、容赦ない文章が、奇妙な調子で続く。

 ラストには大どんでん返しが待っていて、作者の娯楽小説の書き手としての職人ぶりを思わせる、そんな手ごたえを味わう事ができる。他のこの作家の作品にも手を出したくなるような終章と言っていいだろう。

(2005.09.28)
最終更新:2013年04月28日 01:23