題名:幸
作者:香納諒一
発行:角川春樹事務所 2013.01.18 初版
価格:\1,800


 ミステリの風土というものを考えた場合、時代と土地と、そこに暮らす人々というところの傾向が、物語に命を与えてゆくことがあると思う。そのあたりが書けていないミステリを、ぼくはトリック中心の本格ミステリだと割り切って考えているので、本格というジャンルはぼくは読まない。

 ミステリという広義のジャンルの中でも、背景となる風土をよく描けている作品には、必ず物語の命があるし、人間の気配が息づいている。そういった空気感を描ける作家こそが、本当の意味での小説家であると思うし、そうでない作家は、ストーリーの面白さという一面的な評価を下す以前の問題として、ぼくは排除しようと試みる。

 ぼくが読むためにその作品を手に取り、そして評価し、人に紹介したいと思う作家は、そういう決して低くはないハードルをしっかりと超えて翔ぶことのできる人たち、とぼくの基準が決定する。だからこその味わいを、彼ら良質な作家たちの本に求め、物語の世界をぼくばかりではなく読者という種類の旅人は通過してゆくのだ。様々な思いを捨てたり拾ったりしながら、通過してゆくのだ。

 そのまぎれもない良質な作家の一人が香納諒一であり、この人の作品にはとりわけ初期の頃より触れており、なおかつ縁が深い。

 作家の自信作と見え、出版社を通して本書をプレゼント頂き、心を込めて読ませて頂きました。

 本書の風土としては、まず寂れゆくアーケード街(ぼくは鉄の町室蘭のアーケード撤去工事の風景を個人的に思い出したけど……)と、再開発に絡む政治と土建業界という、まことどこにでも転がっていそうな欲望の街、とも言うべき罪と業の材料が配されている。それらを縦軸とすれば、権力者の住む旧家の一族とこれに関わる弱者たちの複雑極まる関係絵図が横軸となる。

 高齢化して孤独になった老婆の認知症、徘徊といった問題をも含めた、高齢社会の縮図のような街で、それらを火にかけると、こうした火鍋の様相となる。

 それらグツグツと煮え立つ混沌の中に、実に庶民的な刑事コンビが立つ。過去の事情で左遷されたヒラ刑事と、刑事としては異例な妊婦女性のコンビ。妊婦と組まされ苦虫を噛み潰している中年刑事と、気の強い妊婦刑事の氷河のような距離感が、複雑な事件に向き合ううちに雪解けを見てゆくストーリーテリングは、この作者ならではのものであるように思う。そもそもがキャラクター造形が上手い作家なのだが、お腹の大きな妊婦の刑事が、複雑に絡み合う過去の人間模様の知恵の輪を解いてゆくコントラストのようなものが本書の味わい深いところである。

 映画にしたら面白いだろうなあ。上手い俳優を配したいよなあ。そんなことを考えながら、子供にはわからない大人向けミステリの本書を閉じる。「幸」というタイトルに、何層もの意味があるあたりも、読後改めて唸らせられるのだった。

(2013.04.03)
最終更新:2013年04月03日 10:40