冷血





題名:冷血 上/下
作者:高村 薫
発行:毎日新聞社 2012.11.30 初版
価格:各\1,600

 「合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか?」
 と書いたのは、2009年の『太陽を曳く馬』のレビューでのことだ。
 そして、合田は無事、帰還してきた。この『冷血』という新たな高村文学の形を伴って。

 取り扱われるのは一家四人殺し、というどこかで聞いたような事件。しかるに、その事件に至るまでの章が長い。殺人犯となる二人の男の過程と、被害者となる四人の家族の過程とが、併行線を描いたまま、交わることなく語られる。日常というのは、この二つの線が交じるということがない現象のことを言うのだろう。淡々とした無関係な描写が、交互に語られることによって、それらの日常と、異常な事態に至る経緯とが、次第に研ぎ澄まされてゆくスリリングな感覚。

 それは、あくまでも不条理である。不条理そのものと言っていい。しかし、二人の犯罪者が鬼畜の殺人に至る経緯と、彼らと針の穴のような接点でだけ吻合される一家四人の悲劇的な運命とを、読者は歯噛みするような想いで読まされる。これを読まされることが、本作品の最大の意味合いなのかもしれない。

 となると主役は合田であって合田でなくても構わない。殺人者たちは、他のもっと殺人にふさわしい理由を持った人間たちであってもいい。被害者家族は、もっと殺されるべき理由のある人たちであってもいい。しかし、それらの不適合要素で成立してしまうのが、事件のリアリズムというものなのかもしれない。今までの虚構よりもずっと遥かにドキュメンタリー的な描写で通される本作品のすべてが、それらのあってはならない不適合を、そしてそれゆえに激しい爆発的要素を、際立たせる。

 もちろんトルーマン・カポーティの『冷血』”Cold Blood”に想を得た作品であり、オマージュでもあろう。高村があの傑作ノンフィクションに、小説家としてのこだわりをもってフィクションの側から挑んだこれは小説作りであったに違いない。小説家はときに現実に材を取り、ノンフィクションというジャンルへの挑戦を表明することがある。一方で、ノンフィクションでは描くことのできない何かを水面に浮上させるために、敢えて現実に素材を取りながらも小説という脳内作業による加工を経て、フィクションとして紡いでゆく、そんな流れで生成される作品も後を絶たない。

 高村薫は、ノンフィクションを描く手法により、この作品『冷血』というフィクションを作り出したのである。前作までの福澤家サーガに見られた文学志向をかなぐり捨て、あくまで具体の描写に徹する。人間という、解明できない謎をいくらでも含み得る存在を、抽象ではなく、不条理ではあっても、敢えて行為の表現によってのみ、描き出す。

 被害者側はシンプルに見える。加害者側は生きて追求される。それが、犯罪ノンフィクションの構造になるのかもしれない。少なくとも、まるで何かの偶然な事故のような、この手の出会い頭的な犯罪に関しては。事件も冷血そのものだが、この具象を連ねた小説作法こそが、何よりも冷血そのものである。

 神の視点によって睥睨される事件の全貌、といった究極の冷血さ。ノンフィクションの手法。高村らしからぬ具現描写による作法。それらの新機軸こそが、本作品の読みどころであり、高村ファンの新しい当惑でもある。そうしたいくつもの不穏な要素を孕みながらシンプルかつ、バイオレンスの極北が示される本書。まさに衝撃の力作と言えよう。

(2013.02.13)
最終更新:2013年02月20日 18:31