チャイルド44





題名:チャイルド44 上/下
原題:The Child 44 (2008)
作者:トム・ロブ・スミス Tom Rob Smith
訳者:田口俊樹
発行:新潮文庫 2008.09.01 初版 2009.1.25 7刷
価格:上\705/下\667

 十年に一度の傑作という作品は本当にある。それはもしかしたら万人が認める作品ではないかもしれない。もしかしたらベストセラーですらないかもしれない。しかしそういう作品にはやはり巡り合いたいと願う。

 新潮文庫の海外小説は新人作家発掘への飽くなきチャレンジを細く長くだが、現在も続けている。娯楽小説界にとって一つの係留索のようなものであり、そのため、時にこれはというような傑作を掘り出して見せる。

 傑作の存在に最初はあまり多くの人が気づかない。傑作の匂いを嗅ぎつけるには、どんな能力が必要なのだろうかと、ぼくは常日頃悩む。判断材料の良し悪しを問われるかもしれない。ぼくにとっての判断材料はあまりこれと言った確実なものがない。帯の文句には何度騙されてきたか知れない。カバーのシックさ、クールさにも。それらに較べると翻訳者により判断するという一つの方法は、けっこうヒット率が高いように思われる。

 本書はかのローレンス・ブロックの翻訳で知られる田口俊樹。そこで本を手に取るまでは行ったものの、スターリン体制化のソヴィエトの時代、あの連続殺人事件に関わる、といっただけで、今さらサイコ・スリラーでもないだろう、とぼくは本を書棚の平積みコーナーに戻してしまったのだ。

 『このミス』でこの作品が2008年度海外部門の一位に輝いたときも、ぼくはさほど衝動を受けなかった。最近富に選択傾向に距離を感じるようになっているぼくにとって『このミス』は全然絶対的な価値を持たないでいるのだ。なので、一位になった作品くらいは気が向いたときに読んでおこう、くらいの気持ちでとりあえず買ったのだった。それが年末の『このミス』に触発されて年明けて冬の真っ只中。

 それでも、ぼくはこの作品を手に取らない。結局読み始めたのは、単身赴任先から月に一度だけ帰る札幌への航空機の中、真夏の八月のことだった。

 ところが、読み始めるや否や、ぼくは作品世界に捉えられることになる。1950年代のソヴィエトというある種、何もかもが極度に懐疑的な時代に展開するその物語の苛烈さに。人間たちの命の重さ、罪深さに。まさにこれは十年に一度の傑作ではないのかという実感に捉われながら、ぼくは札幌の我が家に到着してからも、カウチに横になってずっとこの本に捉われ続けた。

 上下巻を一日一冊ずつ二日間で読み終える。そのストーリーの重たさが一つの魅力なのだが、その重心を象るものは、警察官である主人公が弱き人民に対し持つ権力の重さであり、夫婦、親子の愛という以上に生存への渇望の激しさであり、それらの日常生活に染み入ってくる社会的懐疑の深さである。国が、上司が信じられぬ中で、主人公は連続殺人事件の真相に触れてゆく。鉄路をめぐる殺人事件の奥を探る行為は、記憶をめぐる失った兄への追悼の儀式でもあるかのようだった。

 この作家は、イギリス人の母とスウェーデン人の母との間に生まれた1979年生まれの29歳だという。信じがたい才気だ。読者の側がいかに知らぬ時空だとは言え、その時代の重さを感じさせてやまない圧迫感に似た小説の持つ迫力を、青年と言っていいような年齢の新人作家が書いたのだと言う。まさにこれは天才の仕事なのかもしれない。

(2010/04/04)
最終更新:2010年04月04日 18:42