帰郷者




題名:帰郷者
原題:Die Heimkehr (2006)
作者:ベルンハルト・シュリンク Bernhard Schlink
訳者:松永美穂
発行:新潮クレスト・ブックス 2008.11.30 初版
価格:\2,200


 ベルンハルト・シュリンクの年齢は、本書を書いている時点で、62歳。円熟というべき作家年齢である。43歳『ゼルプの裁き』で作家デビュー、51歳『朗読者』で世界的名声をものにした。遅咲きの作家であればこそ、戦争の影を引きずる。

 この作家が純文学であろうが、ハードボイルド作家であろうが、実のところそれは小説スタイルの問題であって、この作家を読もうとする場合、ある意味あまり重要ではない。書かれようとしている主題は、ホロコーストの罪悪を引きずる戦後ドイツ、世界の中心となってぐらりと動いた東西統合時のドイツなのだから。すべてが大戦の落とした影であり、その影の中を光を目指して生き抜こうとする個人たちの命の物語であるのだ。

 というパラグラフは、『逃げてゆく愛』という短編集の感想でのことである。その後、本書を読む限り、ベルンハルト・シュリンクという人が、作家として課せられた使命として追いかけるテーマを少しも変えていないことが明確である。

 本書では、青年が、書きかけの小説の結末を知りたくて奔走を始めるところからストーリーが始まる。小さなきっかけだが、実は、この衝動はこの青年の生涯に運命づけられるほどに、強烈につきまとい、青年はこのことのために生きている、かに見えるようになる。

 壮大な時間を要しながら、世界を旅し、彼は、小説がホメロスの『オデッセイ』に似た構造を持つことに気づく。そして戦後死んだとされ、しかりその実失踪した父が、この小説の書き手ではないかとの疑いを持ち始める。

 書きかけの小説は、ロシア人に捕獲されたドイツ人捕虜たちが森に逃げ込むところから始まる。仲間たちは試練に遭遇して一人一人命を落としてゆき、独りの兵士だけが故郷に帰りつくが、妻は見知らぬ男と新しい生活を営んでいる。

 その先に、兵士はどうしたのか。兵士と妻の間に生まれたのは誰なのか。父を探す旅は自分探しの旅でもあり、その道程は屈曲し、遠回りし、あてどもなく思える。

 ヨーロッパ的作風とはこういうことを言うのだろう。謎に満ちた大戦の記憶のなかから人を探す情念の強さという意味では、映画『ロング・エンゲージメント』の原作ともなったセヴァスチャン・ジャプリゾの『長い日曜日』を想起させるものがある。

 それにしても渾身の作品しか書かない彼の作風には圧倒される。時代や空間を持って行かれる。現代日本人としては、このような精神性を戦争の記憶にまさぐることのできる高貴な魂の作家の存在が欲しいように思うのだが、今のところ、ぼくは残念ながら一人としてそうした検証者や帰郷者には未だ出くわしていない。

(2009/05/31)