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悼む人





題名:悼む人
作者:天童荒太
発行:文藝春秋 2008.11.30 初版
価格:\1,619



 ようやく天童荒太『悼む人』読了。ミステリーでもなければ純文学でもないけれど、人の死というものをこういう切り口で語り、そのことで一人一人の命や人生の重要さを改めて見つめさせてくれる。

 命や人生の意味づけのようなところを、作家も画家も多くの芸術かもスポーツ選手も職人も親も祖父や祖母も、さまざまな形で表現しようと努力している。ある意味、表現し、誰かに伝えることが人間の本能でもあるからだ。

 しかし、事故現場や犯罪現場を訪ねて、知らぬ人の死を悼む青年という、あまりにも特異なキャラクターを造形して差し出してみせた天童荒太の、この唯一無二なる表現方法には、真に意表を突かれる思いである。

 無駄なくぎっしり活字が詰まった本である。ある意味重すぎて読みにくいかもしれないが、著者が7年も費やして書き継いで来た、というだけの重さが、ぎっしりと詰まっていることは確かである。

 ぼくはこの作品は、直木賞受賞作に相応しく、いい小説だと思う。いろいろな人の意見を聴いてみたい気がする。この本を題材に酒を呑みながらたっぷりと話をしてみたい気もする。自分の姿勢や表情を少し変えてしまうほど影響力のある本であるかもしれない。

 「悼む人」とは、この本においてはまさに「死者を悼む人」の意味である。死者を悼む人が小説のタイトルになっているところ、先日のアカデミー賞で話題になった「おくりびと」ブームに関連した作品なのかと勘違いする人なども、もしかしたら出現するかもしれない。ぼくは映画「おくりびと」は観ていないけれども、少なくないメディアの映像情報からは、葬儀社の専門職を題材にした映画であろうとことがわかる。

 その意味では「悼む人」は職業を扱った小説ではなく、「おくりびと」の世界とはとは何の関係もない。職業ではなく、純粋に死者を悼む行為を続ける一人の青年の行動を通して、その裏に透けて見えてくるものは、やはり天童荒太ならではの家族というテーマなのである。

 事故や事件の被害者を新聞などで調べて、実際に人が亡くなった現場を訪ねね、そこで死者の生前の人間像を探ろうと関係者や近所の人を訪ね歩く。もちろんそうした不審な行為に、ごく当たり前に反応する人たちによって、彼は警察に突き出されたり、門前払いを食らわされる。しかし時に、一握りの人々が彼の行為に涙を流し感謝をする。使者を決して忘れない遺族たちの一部が。もちろん決して思い出したくない、他人が興味本位で掘り返すようなものじゃないと、拒絶反応を示す遺族もいる。でも、悼む人の行動は至ってシンプルで、無理強いはしない。

彼が尋ねるのは、常にどのようにして亡くなったのかではない。誰かが死に方を語ろうとすると、彼は遮る。どのように亡くなったかを、ぼくは知ろうとは思いません。**さんは、どのように生きた人であったのかを、知りたいのです。彼は、親族や関係のある人々への聞き込みを通じて尋ねる。「誰かを愛したり、誰かに愛されたことはありましたか。誰かに感謝されたことはあったでしょうか」その言葉を常に尋ね、そうして命の消えた現場にしゃがみ込んで、使者に話しかけ、悼むのである。

 彼の放浪の旅はそうして続くのだけれど、彼のアウトサイド・ストーリーが同時に彼を取り巻く人々の間で進行してゆく。癌が進行中である彼の母と、母を取り巻く親族たち。不図したことから悼む人に出くわし、人生を変えることになった中年週刊誌記者。かつての夫を殺し、罪を購って出所したばかりの自殺志願の女性。

 いや、この物語は、悼む人の物語というより、多くの欠如感を抱えて極北まで追い詰められた彼らの救いの物語であるといってもいい。アウトサイド・ストーリーなどでは決してないのだ。

 悼む人は、見ず知らずの他人の死を、自分の関わりとして捉え、決してアウトサイド・ストーリーとして切り離さず抱え込み、交情しようという途轍もなくアクティブな行為であるように思う。そんな不思議で、心が豊かになる、静謐かつ激震の物語である。

 何度も言うように、この小説は、直木賞受賞にとても相応しいとぼくは思う。それとともに、天童荒太という作家こそが、悼む人なのだろうな、とも。

(2009/04/12)