逃げてゆく愛


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題名:逃げてゆく愛
原題:Liebesfluchten (2000)
作者:ベルンハルト・シュリンク Bernhard Schlink
訳者:松永美穂
発行:新潮クレスト・ブックス 2001.9.25 初版
価格:\2,000


 ベルンハルト・シュリンクの純文学のサイドに立った短編集。と言いつつ自信がない。『朗読者』が純文学のサイドで世界に売れたのであるから、そのままスライドしたようなテーマの多いこの作品集は、やはり同じサイドにあっていいのか、と思っただけである。だからと言ってこの作家が純文学畑の作家であるとは、ぼくは考えていない。どちらかと言えば、ぼくにとってのシュリンクは、ミステリー作家であり、ハードボイルド作家である。

 この作家が純文学であろうが、ハードボイルド作家であろうが、実のところそれは小説スタイルの問題であって、この作家を読もうとする場合、ある意味あまり重要ではない。書かれようとしている主題は、ホロコーストの罪悪を引きずる戦後ドイツ、世界の中心となってぐらりと動いた東西統合時のドイツなのだから。すべてが大戦の落とした影であり、その影の中を光を目指して生き抜こうとする個人たちの命の物語であるのだ。

 本書から感じられる最も強烈なものは、人と人との間に立ちふさがる壁の存在だ。ベルリンの壁が崩壊した後にも、なお人間の心のなかに張り巡らされ続けている不可視的壁。それが愛を断ち切り友情を破壊する。

 例えば世代の断絶というごく当たり前になった言葉の中にも人と人とを断ち切る壁が存在する。世代の断絶と言う場合、ドイツではそれはある意味決定的な言葉にもなり得る。ベルクのシリーズでは、主人公の探偵はかつてはホロコーストに手を貸す側の法律家であったために、その秘密を持て余しながら日常を送り続ける。自己断罪の踏み跡が引かれ、己もまた犠牲者だという意識による自己愛の表出に呻吟する日常を。

 だからこそ少年が父の秘密にふれようとするときに現われる時代の壁は、アウシュビッツやダッハウ抜きには語ることができない。

 また東西ベルリンの取り払われた壁の後、ゆききする異文化の中で、なお燻り続ける秘密警察時代の、裏切りや妄執。多くの見えない壁が張り巡らされた疑心暗鬼。男と女の間に深く穿たれる懐疑の壁たち。

 そういった壁の存在を感じさせる物語を紡ぐために、シュリンクは多くの場所を題材にし、多くの時には滑稽とまで見える個性を登場させてゆく。アメリカを舞台にしたドイツ人青年とユダヤ女性との間に立ちはだかる、民族宗教と歴史の壁。彼らの間を針のように刺し貫く会話体の痛みを読者は誰もが感じることだろう。

 美しいセントラルパーク。立ち上る朝靄の向こうに果てしなく拡がるハイデルベルクの野。霧に閉ざされたオレゴン。美しい世界と、そこに立ち尽くす人間たちの惑い。はっとするような、人生の一瞬が切り拓かれて、新しいものに変わってゆく。見えていたものがすべて違った意味合いを持ち始める。驚きに満ちた物語りたち。シュリンクのエッセンスが詰まった希有で貴重な作品集である。

(2004/01/04)