ゼルプの欺瞞




題名:ゼルプの欺瞞
原題:Selbs Betrug (1992)
作者:ベルンハルト・シュリンク Bernhard Schlink
訳者:平野卿子
発行:小学館 2002.10.10 初版
価格:\1900


 『ゼルプの裁き』に続くゲーアハルト・ゼルプ三部作シリーズの第二弾。時期的には、あの大ヒット作『朗読者』に先立つ1992年の作品だが、本書はドイツ・ミステリ大賞受賞作でもある。なんといってもアメリカン・ハードボイルドのスタンダードな流れを汲みつつ、第二次大戦を含めての戦後処理問題を引きずる現代史を生きてきた頑固老人の私立探偵という設定があまりにも深く、重厚で、それでいて抑制をきかせながらも随所にユーモアのセンスを忘れない、文体のうまみ。老探偵は一徹であり、ベテランの切れ味を見せる捜査に、思わず心奪われる好シリーズなのである。

 もともと『朗読者』は純文学だ。娯楽小説のリーグでも、この作家の筆力には驚くほどの安定感と緻密さがある。その技術をハードボイルドというかたちで活かしてくれているのが、なんといっても嬉しい。忍び込んだ家のビデオタイトルを見ていて、『ワイルド・バンチ』だけは持って帰りたくなってしまったと独白するゼルプがとてもいい。

 ナチ時代には検事として多くの囚人を強制収容所送りにしていた主人公ゲーアハルト・ゼルプが、前作では自分を利用した過去のシステムを動かしていた親友に制裁を下すまでのストーリー。己の過去の闇に向かい合うとゼルプにとって非常にしんどい事件であった。普通の人々が普通にナチ党員になり、ホロコーストに手を貸していた独特の麻痺感覚。ドイツという国全体のそうした罪重き過去を抱え、ゼルプは検事をやめ、私立探偵としての戦後を生きることになった。

 本作はナチ世代に対して牙を剥く第二世代にフォーカス。父親たちの世代を批判しつつ、東西ドイツの統合を迎え、バーダー・マインホフなどのドイツ赤軍テロ組織が終焉してゆく中で、テロ組織にいた若者たちのその後を描いている。ゼルプが向き合うのは、振り上げた拳を下ろし切れないでいる暴走した青春群像でもある。ちなみにこのような第一世代と第二世代とのコントラストは『朗読者』でも描かれた構図であった。

 本書の素晴らしさは、そうした暗黒史を見つめながら、等身大の私立探偵、しかも69歳という高齢者探偵が歴史を両肩に背負いつつ、事件を暴いてゆく部分にある。ゼルプを取り囲む多くのレギュラー脇役陣もともに年齢を重ね、病気になったり、退職したりする。その時間の重みが何とも言えずこの小説世界全体を味わい深くしている。それでも若い女性ときちんと恋愛関係にあるゼルプ、女性たちの尻を追い回すことをやめない医師フィリップ、夫婦愛を見つめなおす警視正ネーゲルスバッハ。どの脇役陣も忘れることのできない存在感を湛え、それぞれの生活を必死に生きている。

 そうしたすべてを、ひたすらゼルプの視点から一人称で描いた、まさにハードボイルドの王道ともいうべきシリーズが、こうしてドイツに存在するわけだ。ゼルプ・シリーズとして。この四月には完結編『ゼルプの殺人』が、さらに近々、スパイ・エンターテインメントして『ゴルディオスの結び目』が出版予定。『朗読者』で有名になったシュリンクが、今、ドイツ・ハードボイルドの雄として再登場し、さらに眼を離せない重要な存在となったのである。

(2003/06/12)