偽りの街



題名:偽りの街
原題:MARCH VIOLETS ,1989
作者:PHILIP KERR
訳者:東江一紀
発行:新潮文庫 1992.6.25 初版 1992.12.25 第2刷
価格:\560(本体\544)

 昨年のベスト・ミステリーに必ずと言っていいほど名を連ねているのでとても気になっていた作品。ナチの独裁 1936 年ドイツを舞台に据えた私立探偵ものというだけで、不思議な反骨の魅力に満ちたハードボイルドに仕上がっている。ぼくと同年齢のイギリス人作家が書いた作品でもある。イギリス人でハードボイルド作家となれば言わずと知れたチャンドラー。言ってみればこの作品はヒットラー独裁政権の下で不自由ながらも生き抜いてゆくフィリップ・マーローものと言っていいかもしれない (だからマーローものとは酷くかけ離れているということである、事実は)。とにかく斬新な作品が現われたものだ。

 こうした小説には時代考証は不可欠なのであろうが、この点では非常に安心感を持ってのぞめる。作品の半ばが、この時代描写に終始していると言ってもいいほど、全体に重い雰囲気が立ちこめている。だからマーロー調の皮肉な口ぶり一つ取っても、ゲシュタポ相手では命がけの迫力がある。そして自ずと探偵にも限界はある。ダッハウなどの地名を聞くと、煙草を持つ手が震え出したりもする。時代はまったきハードボイルドにマッチしており、そこに半端さはない。

 そんな中では生じる事件も、マーロー世界の如き個人主義的なそれには収まり切らない。国家も時代も関わってくる。終盤は、どちらかというとぼくはディック・フランシスの感覚で読んでしまった。耐えるタフさ、生き残るタフさという意味でも、単なる私立探偵ものでは括ることができない。こんなに苦労する私立探偵はシッド・ハレー以外に見たことがないからだ。そして時代の、手綱を離れた奔放さが、大きな潮流となって探偵を呑み込んで行くような、象徴的なラスト・シーンはちょっと忘れがたい。

 ケリをつけないで終わっているサブ・ストーリーは、どうやら次作に持ち越されるらしいが、既にこの後に二作の同シリーズ作が邦訳を待っているようである。追いかけてみたくなる作家がまた一人増えてしまった。ハードボイルド・ファン必読!

(1993.02.27)
最終更新:2009年01月22日 22:59