夢を見るかもしれない


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題名:夢を見るかもしれない
原題:Perchance To Dream (1991)
著者:ロバート・B・パーカー Robert B. Parker
訳者:菊池 光
発行:早川書房 1992.8.15 初版
価格:\1,600

 『プードル・スプリングス物語』はパーカーにとってやはり不十分であったのだと思う。遺稿が残されていたことにより制限が多かったし、その制限はマーローらしさから遠ざかる種類のものだったから、パーカーは思うようなマーローを創出することができなかった。そうした未消化の感覚が、もう一度パーカーをフィリップ・マーローに取り掛からせたに違いない。自分でもう一度マーローのイメージについて正しく整理してみたかったに違いない。

 だからこそ『大いなる眠り』を書き継ぐという結構な野心を持って、今度は本作に望んだのだろうと思う。その野心が本書には感じられる。それなりに入魂の作品だったと思われる。前作の雪辱を意図したことがよくわかる。よりスペンサーから離れること。よりフィリップ・マーローを再現すること。そうした作家的根性が非常によく出ている。この作品については原りょうだって何がしかの衝撃を感じたに違いない。

 しかしある意味では気合いが入り過ぎて、話を大きくし過ぎた嫌いがある。『キャッツキルの鷲』がスケールを大きくし過ぎたためにシリーズの中で浮いてしまったことを思い出す。また『忍び寄る牙』でもパーカーの悪役は次作が危ぶまれるほどの巨大な犯罪をやらかしてしまった。パーカーは気合いを入れると後先を考えない。これまでの前歴がそう告げている。本書もそういう意味では同断。最もマーローらしくない点は物語のスケールが大き過ぎる点とぼくは感じた。

 50年前の世相を日本で描きかつ現代風に事件を進行させるというのはかなり困難だと思う。しかしLAではエルロイ作品などでもわかるように、現代との極端な距離を感じることをさせない。ぼくがアメリカを知らないということがまずあるのかもしれない。でも、それ以上にチャンドラー文体が50年前から確立されていたということのほうがきっと重要なことだろう。日本で同じことをやろうとすると浅田次郎や藤田宜永のように、時代を反映させた口語体、もしくはレトロ文体で物語を綴るしかなくなるだろう。その点アメリカ文学が英語で綴られていることそのものに、ある意味での、こうした古典への取っ付きやすさのようなものを感じる。パーカーはそれを利用している。おかげで古い時代をあまり感じ取ることはできなかった。不満といえばその点は不満だけど、もともとチャンドラーは今読んでも新しさに満ちているから、これでいいと言えばいいのかもしれない。

 ストーリーは、少しサイコがかっていて現代的で、とりわけ残酷な殺害現場の描写などには違和感を感じる。それ以上に巨悪の中心人物が問題である。劇画的でリアルさに欠け滑稽である。おまけに事件そのものへの決着の問題についてはぼくは大いに疑問が残る。入り組んだプロットを丁寧な文体で書き綴った一方でこうした荒さが多く目につくというのは大変残念である。パーカーはもう一度雪辱しないといけないのかもしれない。

 そう言えばp219で、

 『わたしの九十五回目の誕生日が過ぎようとする頃』

 というわけのわからない描写が出てくる。マーローの冗談ぎみのモノローグであり、ついでにパーカーの冗談も入っているのかも知れないな、と思った。前作と本書の間の50年という時間を差し引いたらマーローの作中の年齢なのかな、なんて。
最終更新:2006年12月10日 21:46