殺意のコイン




題名:殺意のコイン
原題:Spare Charge (2007)
作者:ロバート・B・パーカー Robert B. Parker
訳者:奥村章子
発行:ハヤカワミステリ文庫 2008.04.15 初版
価格:\820


 ジェッシー・ストーン・シリーズとのクロス・ストーリーは、彼らの別離によって終わりを告げたのだが、彼らのその後に関する作品がどちらも今年邦訳された。別離というにはさほど重たくもなかった、とは思う。それぞれに分かれたパートナーへの未練が断ち難く(奇妙なことにそれぞれのお相手も同様である)、互いの別居&プラトニック・ラヴの孤独生活が始まるわけである。

 もちろん本書が出版された2008年春の時点では、ジェッシーの方の物語は未知である。シリーズだというのに読む順序がある。コアな読者へのサービスとしては気が利いた展開であったが、どちらかのシリーズ単独で読んでいるファンには、謎めいて読みにくい部分も感じられるはずだ。しかし、どちらかのシリーズ単独読者というのはいるのだろうか。

 そう、もちろんいるだろう。世の中には文庫本しか読まない読者が多いから。値段の点で。もしくは大きさや重量といった携帯性の点で。サニー・ランドルのシリーズは文庫本なので圧倒的に発行部数も多いのではないか。ジェッシーのシリーズを文庫で読もうとすると数年前の作品しか手に入らない。読書とは極めて厄介な趣味なのだ。

 さて本書でのサニー・ランドルは、シリーズとしては珍しく父の依頼を受けて、連続殺人犯に挑戦する。いや、正しくは、連続殺人犯が元警察官であるサニーの父フィル・ランドルに挑戦状を叩きつけてきたのである。殺人現場に残される3枚のコインが犯人の徴(しるし)であり、父への犯人からの挑発的な手紙がさらに歪んだ容疑者像を浮き立たせる。

 古典的な「俺を捕まえてみろ」タイプの殺人鬼であるが、何と奴は20年ぶりにカムバックしてきたのである。フィルが現役のときの捜査責任者であったが事件は迷宮入り。今回は父とさらにその娘であるサニーとで、リベンジを果たす物語だ。殺人者はなぜ復活を遂げたのか? といったところがこの捜査の焦点となる。

 ちなみに引退した警察官であるフィルは、名誉ある立場として現役警官たちから慕われているとは言え、本書では外部委託契約のようなものを結んで捜査協力に当たる。さらにそのフィルが、娘のサニーを私立探偵として雇用する。こんな契約は日本の警察捜査の場合考えられないのだが、ボストンではありなのか?

 向うの私立探偵小説を読むときによく思うのが、私立探偵と警察との親密な関係である。私立探偵の免許の効力ということを考えた時に、どこまで操作内容を入手できるのかいつも問題に思う。あちらの探偵小説では、いとも容易に警察からの情報を入手しているかに見える。もちろん警察出身者でなければ私立探偵許可証が得られにくいというのはわかる。だから元の勤務先、元の同僚との関係性というのもわかる。

 しかし本書ではFBI支局長のエプスタインまでがサニーに捜査の中軸の権限を与えてしまう。そうしてもらわなければストーリーが成り立たないからの便宜上の手続きなのか、それとも現実性には乏しい御伽噺的なプロットなのか? ぼくら日本人が違和感を覚える捜査権限のありさまに関し、米国人の読者がどのように感じるのか聴いてみたい気がする。

 私立探偵としての足かせを感じさせるシリーズとしてはマイクル・コナリーのハリー・ボッシュがあった。彼はコールドケース・チームに復帰したが、その間、私立探偵としてのボッシュは警察組織からは協力どころか妨害にしか合わなかった印象があった。だからこそボッシュは警察への復帰を喜んだ。

 サニーは、格好いい美人探偵として、よりスーパー・ウーマンになるために、危険な事件にチャレンジする。周囲は少しだけ反対するが、結局は武装したタフな探偵としての自己を確立しようとし、それに成功してゆく。  一方でスーザン・シルバーマンのクリニックでカウンセリングを受け、分かれた亭主のことや事件のことを内省する弱さを併せ持つ。アメリカ人独特の遊牧民族的単純ささえ伺える仕事への姿勢が目立つ一方で、病みかけた魂の行き場に常に陰なる部分を気にせずにはいられない彼らの弱さも、特徴的である。パーカーの作品からは、アメリカの持つ文化の軋みのようなものが常に感じられてならない。

(2008/12/28)