弥勒世





題名:弥勒世 上/下
作者:馳 星周
発行:小学館 2008.2.25 初版
価格:各\1,800

 ぼくは沖縄という土地に行ったことがない。最近うずうずしているのは、沖縄に行きたいという気持ちが少しずつ心のどこかでくすぶり始めたからである。その影響。もちろん友人知人の沖縄旅行の話もある。知人の一人は沖縄に永住を決めて、北海道からつい先日旅立ってしまった。でも人の影響をことさら受けにくいタイプであるぼくの場合、沖縄に足を踏み入れ、この目で沖縄を見たいと思っているのは、本の影響であり、作家の影響である。

 『沖縄を撃つ!』花村萬月のルポルタージュは、そこそこ奇妙で楽しかった。その萬月さんが『針(ニードルス)』のペンを折り、ついぞ読めなくなってしまったという決断は、さらに心に空洞を作るほどショックであった。『セラフィムの夜』で、男女のハーフ、国籍のハーフを取り上げるシーンがあり、とても人間としてプリミティブなテーマを扱おうとしながらデリケートな壁の存在を感じさせるところが、書く側にも読む側にもどこか疎かにしてはいけないようなタブーに近い何かを意識させるような気がした。だからこそ『針(ニードルス)』は社会的なある領域に踏み入らなくてはいけないというタブーと創作との軋轢に潰されたのかと思わざるを得なかった。

 さて、そこで本書、『弥勒世』は、最近脱皮した感の著しい馳星周が、馳節のバリエーションをどう巧く使いこなしてみせるかというトライを敢えて歴史的題材の多い沖縄の地に求めた意欲作である。作家にとってはマンネリから脱しようという渾身の作品であったろうし、沖縄、それも返還直前、コザ暴動といった歴史的事件に材を取るなど、並みの高さではないハードルを乗り越えようという志を強烈に感じさせる大作である。

 沖縄という1970年代当時の混沌を、大長篇作品というかたちで、徹底して描く手法は、どこかで在日の青年たちの熱気を描く梁石日に通じるものを感じさせ、一方で歴史の渦の中で翻弄されてゆく人々の姿は船戸与一の小説世界に通じるものを想起させた。国があり、時代があり、その裏側で蠢く諜報機関やヤクザ者たちが暗闘してゆくあたりは、ジェイムズ・エルロイのロス暗黒史シリーズへ繋がる地平でもある。いわば、いずれも馳星周という作家が敬愛してきた作家たちの風を、いい意味で盗み、馳節という現在の彼独自の旋律に乗せて奏で上げた、本作は一大狂詩曲なのではあるまいか。

 この小説の時代背景は1970年前後である。こうした現代史に基づく小説を読むとき、自然と個人史と重ね合わせてしまうのだが、ぼくは当時15歳、高校一年生であった。高校に入った途端、校内に警察が入り込み学生運動に身を投じていた上級生を逮捕した事件が起こり、校舎の壁に警察の介入を許した学校側を糾弾するといった垂れ幕が大きく掲げられていた。いわば、ぼくらは数年上の核マル、中核などの学生運動のケツを見て育った三無主義世代だったのである。

 当時、沖縄に関心はなく、自分の生活と趣味にしか目を向けない非常に視野の狭い個人主義者でしかなかった。今もあまり変化はないのだけれど。一方、馳星周は、当時小学校に入学するくらいの年齢だったはずである。しかし作家個人と一時期親交のあったぼくは、彼が父親から、非常に強い政治的影響を受けて育ったことを知っている。彼の本名は某政治家の名にちなんだものであり、父親は某野党の党職員である。沖縄に限らず日本国の政治を裏から見据える眼差しは、平均以上に彼には備わっていたのではないかと想像する。

 かといって本書が政治小説であるかといえばそうではない。本書はまぎれもなく娯楽小説であり、その中で馳星周はそのスタイルを微塵も崩していない。これほどまで残酷な運命にしなくてもと思うところを容赦なく斬り払ってしまうところがいつもの馳であり、いつもはそれがやり過ぎであるように見えるのだが、本書の舞台時代ではこれもやむを得ないと思わされる。それほどにしっかりと読者を大団円に導いてくれた牽引力抜群の力作である。畢生の大作というには早計に過ぎると思うが、匹敵する魂の入れ込みようを感じさせるという意味においては間違いのないところである。

(2008/08/17)