越境捜査




題名:越境捜査
作者:笹本稜平
発行:双葉社 2007.08.25 初版
価格:\1,500




 笹本稜平は、とにかくプロットで勝負したがる作家である。一作目『時の渚』で抱いた印象では、情緒型ハードボイルド作家というイメージだったのだが、第二作『天空への回廊』は、フレデリック・フォーサイスのような海外型の大スケール冒険小説であったから、先の印象を一掃せざるを得なくなった。その後、どちらかと言えばハードボイルド作家というよりも、スケール型冒険小説作家として、緻密な謀略、絡み合った力関係、といった組織優先型の大型ストーリーを売り物にしているようだった。一方でキャラクターが立っていないなどの批判の声も強く、ある意味、時代のニーズに対する弱さを露呈してもいた。

同じようなことを海外リーガル・サスペンス作家、フィリップ・マーゴリンが言われている。法廷ものは人間ドラマが多いのだが、ストーリー優先のジェットコースターノヴェルの作り手であるマーゴリンは、リーガルもの読者に今ひとつ受けが悪い。

 もちろん笹本稜平もマーゴリンも、キャラ造形が、得意ではないのだ。人を食ったようなキャラの存在は、未だに一人として作れていないし、人間の描き方が一面的に過ぎ、偶発性に頼った面白さ優先のプロット造りに、神経を注いでいるように見える。もちろんこの手のドライな読み物を好む読者はちゃんと存在する。笹本稜平の世界スケールは大きいし、日本人作家があまり得意としなかった大自然までをも取り入れた英国冒険小説を髣髴とさせる物語の魅力は、この人ならではの才であると思う。

 しかし、なぜ今、英国冒険小説は日本人に読まれていないのだろうか。なぜ今、日本人は新しい若手作家たちの小説を読むのだろうか。

 もちろん世代間のギャップもある。平成の若者が、'70年代アメリカン・ニューシネマや、ウエストコースト・サウンドに何の興味も持たないように、その頃流行ったアリステア・マクリーンや、ジャック・ヒギンズを手に取ろうともしないのは、時代の流れから言って当然のことだ。

 笹本は、そうした若い世代に媚びることなく、頑なに自分の憧れ、読んできたあの冒険小説の時代にこだわり、自ら奮闘する、少し遅れてきてしまった作家なのじゃないだろうか。

 かつて日本にも、まぎれもない冒険小説の時代は存在した。佐々木譲が『エトロフ発緊急電』を書き、逢坂剛が『カディスの赤い星』を書き、船戸与一が『猛き箱船』を書き、志水辰夫が『飢えて狼』を書いたあの一時代、日本冒険小説協会が生まれ、日本冒険小説協会大賞が光り輝いていたあの頃、ぼくはパソコン通信を始めるや否や、冒険小説フォーラムに飛び込み、日夜、愛好者たちの群れのなかで、熱く語り、かつ深く酔い潰れたものである。

 だが、佐々木譲も、逢坂剛も、今では警察小説作家の雄となり、志水辰夫は熟練の恋愛小説作家となった。日本最長の冒険小説であるかもしれない『鋼鉄の騎士』を書いた藤田宜永もまた、中高年の恋愛を描く作家として以前より遥かに有名になり、若手読者はもはや冒険小説に見向きもせず、ソフトな恋愛系ミステリ、スタイリッシュな警察小説、ブラックでコケティッシュなクライム・ノベルに夢中になってゆくのだ。

 本書はそうした時代に笹本という時代遅れの作家が、風車を回そうと送り出したまた一つの新たな試みであろう。溢れ返る警察小説の群れに解き放った彼なりの刺客みたいな存在であったのだろう。もちろんキャラ造りに関して不器用な笹本は、プロットを凝りに凝った形で築き上げようとする。多分プロット完成の段階で、小説の九割は完了し、彼の中で一つの成功が終っているのだろう。後は、如才ない形での彼の基礎の高さを思わせる文章執筆力による職人的作業だけで本は作りあがってゆく。そう、まるで町工場の熟練工が、世間のブームを気に止めず、汗まみれのランニング・シャツ姿で工具の動きに集中してねじ山を正確に穿ってゆくように。

 プロットの中で作り上げられた魅力的なキャラクターはしっかりと存在するのだ。彼らは生真面目ではなく、むしろはぐれ者たちであり、その異色のトリオが最後には共同して消えた12億円の強奪を目指すのだ。正義感に始まり、欲得に終る物語だ。ある意味人生の象徴でもあるかのように、ある種ドラマとしての定番の流れである。それでいて堕落を感じさせず、最後の最後まで清潔な感じが漂うのは、やはり笹本という職人作家の古い気質によるところ、外れ切れないハイ・モラルな部分が大きいのだろう。一方でそれこそが阻害要因でもあるのだが。

 完璧で100%な作品をこうして作りながら、なぜか最後まで「プロット」という言葉ばかりが頭から抜けない読者を作り出してしまうのが、笹本稜平のいわく作家的限界であり、彼にしてみれば守るべき職人魂の砦であるのかもしれない。ごく微妙な差ながら、ぼくと作家との世代のギャップというところに結局は結論が落ちてしまうのであれば、それはちょっと寂しく、おそらく読者の側の世代が求めるところに今にも届こうとしているだけに、極めて残念なことでもある。

(2008/05/06)