ドリーミング・オブ・ホーム&マザー





題名:ドリーミング・オブ・ホーム&マザー
作者:打海文三
発行:光文社 2008.02.25 初版
価格:\1,700




 故人の本を読むのは、大変に複雑な気持ちだ。それもごく最近故人になったばかりの作家の場合。しかもそれが突然の死であった場合。さらにその作家が、唯一無二の作風を持つかけがえのない作家であり、その作家に読者として個人的に極めて入れ込んでいた場合。

 その最悪の喪失感を迎えて間もなく、この白鳥の歌は上梓された。もちろんぼくにとって、かけがえのない大切な宝だ。天才作家・打海文三が、最後に完成させた楽曲である。ページの合間から聴こえてくる音色の一つ一つに耳を傾け、全神経を集中させて読むのだ。かくして、作家以上に、読者の側が力んで取り組む読書の時間が、札幌の片隅でひそやかに成立する。

 本書は恋愛小説のように始まり、戦記のように終る物語である。

 恋と性と暴力の協奏曲が、いつにも増して音域を拡げ、凶暴に襲いかかってくる。語り出しの穏やかさに騙されてはいけない。主人公の謙虚さを信じ過ぎてはいけない。やがて、この静かな三角関係のような相関図は、一頭の獰猛な黒犬イエケの、種族を超えた愛と飢えの感情により、ぶすぶすと発火し始める。

 燃え上がる官能の世界は、果てしなく怠惰で破壊的だ。あの傑作『愛と悔恨のカーニバル』が与えた刺激を回帰させる。あまりにも独自で、独自すぎる。

異様に育った女流作家の性的世界が、さらに膨れ上がろうとする。偶然によって黒犬イエケは、新型ウィルスの感染を引き起こし、それはやがて多くの死者を出す。日本中が騒然となり、東京SARSと呼ばれる致死の菌が、黒犬によって死とともにばら撒かれる。

 男と女が共有する幼い頃の犬の追想、そして冒険の記憶が、物語全体の推進力となりながらも、自分でわからない自分、決してわからない他者であり、異性である恋人、そうした不可解さと謎に満ちた世界を紡ぎ出してゆく。殺戮と感染とでピアノ線のように張り詰めた時間。世界の破壊の謎を探り出そうとする二人が、その琴線を呼吸する。

 すべてが夢であったのか、現実であったのか。そんなことすら不明となる不確かさに満ちた世界。打海と言う作家が、世界に謎をかけて、そうして退場してゆく。陰影のひときわ濃い影を、黒く長くぼくらのこころに引いたままで。

(2008.05.06)