暗殺者の顔





題名:暗殺者の顔
原題:The Face Of The Assasin (2004)
作者:デイヴィッド・リンジー David Lindsey
訳者:石田善彦
発行:柏櫓舎 2008.01.31 初版
価格:\2,000


 9.11を境にアメリカにとってテロは意味合いを変えた。アメリカはテロリストに狙われるものと、改めてアメリカ国民によって認識されたのだ。しかし、テロリストの標的は国際貿易センタービルであるとか、ペンタゴンであるとか、国際的にも有名なものであると予測され、実際にはアメリカの中核地帯に住む国民たちは、恐怖に竦み上がるまでには至っていない。本書では、テロリストが次に考えたのが、中核地帯に同時多発テロを発生させることにより、国民のすべてに恐怖を植えつけることだった。

CIAとテロリストの暗闘に巻き込まれたのは、複顔アーティストのポール・バーンだった。彼は、依頼された頭蓋骨を複顔してゆくうちに、それが自分の顔であることに気づく。その頭蓋骨は、メキシコで死んだCIAの潜入工作員である兄ジュードのものだったのだ。ポールへの奇妙な形でのCIAの接触が始まる。

 デイヴィッド・リンジーがCIAの登場したりする国際スリラーのようなものを書くことは滅多にない。ヒューストンを舞台にした警察小説がほとんどである。『ガラスの暗殺者』では双子の姉妹である暗殺者が登場、『沈黙のルール』では、誘拐と脅迫で一家を襲撃するメキシコの犯罪者集団が登場するが、どちらも犯罪の域を出ず、テロ、国際謀略というところまでは至らない。

 その意味では本書は初めてのスケールで描かれた、リンジー・ファンにとってはちょっとした注目作なのである。

 プロットがプロットなので、リンジーの小説とは一見思えない。スパイ小説の本家であるデイヴィッド・マレルあたりを読んでいるかのようである。描写の精緻さ、文学性が行間から立ち昇る表現の巧みさなど、ストーリーが快テンポで進行してくれない前半部は、それでもやはり、リンジーの気配が漂うのだが、メキシコに舞台を移す中盤からの一気に加速してゆく展開は、その死闘の凄まじさも加えて、圧倒的な迫力とスピード感を与えてくれる。

 キャラクターが凄絶である。

 妻と死別したポールのコテージに遊びに来る知人の娘マリアは、妻を失った水上事故の際に、脳に損傷を受けたために、論理的な会話が交わせない。独特のテンポで彼女ならではの言葉が自由に乱雑に語られるので、言葉の交流はできない。しかし感性は鋭く、表情や態度の裏にある真実を言い当てることができる。いわば人間嘘発見器なのだ。

 顔を復元するアーティストであるポールは顔の向うにマリアの見る真実である部分を透かし見ようとする。ポールに与えられたマリアの影響は計り知れない。

 メキシコでのCIAの民間型下請機関のヴァーゴ・モンドラゴンは、顔を失った怪物であり、かろうじて露出して瞬きのできない瞳とものを言う唇だけが残されており、湿気と鎮痛剤を含んだスプレーと薄い透明なマスクの携帯無しでは生きてゆくことができない。清浄な空気に満ちた彼のリビングルームには世界中から集めた人間の顔のコレクションが展示されて、イルミネーションで闇の中に浮かび上がっている。

 ちょうどハンニバル・レクターに顔を食われた『ハンニバル』の敵役となったメイスンのようである。そう言えば、本書の奇怪な暴力シーンの数々は、トマス・ハリスの迫力に値する。

 さらに本書でのテロリストは、顔を整形している。つまり、本書は顔の復元を行う男による、顔をめぐる地獄めぐりと言った様相なのである。

 そう言えば冒頭、兄のジュードが殺害されるシーンは眼を覆うほどに残酷であり、こんなスタートから始まる暗澹たる思いと、その兄のことをまだ知らず死地に飛び込んでゆく弟ポールの運命が、読者のサイドからは恐怖に満ちている。多視点からの描写をこれほどスリリングに使い分けて、物語は重く、危険を孕んで予想外の結末に向かってゆく。

 思えばのっけから、読者の想像をいい意味で裏切り続ける物語である。随所に突発的な暴力が沸き起こり、衝撃的な展開へと落下してゆく。驚きとスリル、そして何よりも顔を題材にしての恐怖に満ちた時間が増幅してゆく凄まじい作品なのだ。さすがリンジーとしか言いようがない。

 巻末、解説の中で、リンジーが世界20ヶ国語に翻訳され堂々実力と人気の伴うベストセラー作家であるのに、日本では今ひとつ認識が薄いということを嘆いている。海外ミステリーの多くが読まれないでいる上に、こうした玄人受けしそうな熟練の作家が読まれないこと、知られていないことは、同じ読者としてもかなり淋しいものがある。

 石田善彦氏の最後の翻訳仕事だったそうであり、いわば絶筆である。ラストの残された部分、手直しの部分は、もともとリンジーの元祖翻訳家であり、柏櫓舎の代表でもある山本光伸氏が引き継いだ、とある。山本氏は北海道に移り住み、札幌で仕事をしているが、石田氏も札幌を終の棲家に選択し、山本氏の仕事を手伝い、翻訳家セミナーの講師を引き受けていたのだそうである。ぼくはこの出版社をずっと応援している。これからも、選び抜かれた素晴らしい作品の存在を、札幌から書評という形で発信し続けたいと思っている。

(2008/04/05)
最終更新:2008年04月07日 00:35