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三たびの海峡


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題名:三たびの海峡
作者:帚木蓬生
発行:新潮社 1992.4.15 初版
価格:\1,500(本体\1,456)

 『アフリカの蹄』で南アフリカの人種差別事情を描いた作者の新作。病原菌による黒人幼児の大量抹殺という、問答無用の人非人たちが今もなお件の国にはいたりするのだよ、というような本で、なにか社会正義派の小説であったのだが、なにせ遠い国のできごとをルポルタージュ風にしか描いていない感じで、主人公たる日本人医師の問題意識がお仕着せがましく、作品としての魅力そのものに欠けていた。日本人読者に訴えかけるにはなにせ迫力にも欠けたいた。淡々としすぎていた。その作者が、今度は隣国朝鮮の悲劇の一端を書いた。作家として<書かねばならぬ>的モチーフを感じつつ書かれたのであろう同じ社会正義、同じ題材でも、朝鮮半島と日本とのこれまでの関わり方をぼくらに否応なく「どうだ?」と突き出してくることで、もう前作とは比較にはならない作品の存在を感じさせられた作品である。

 純文学に組しないが単純に娯楽作品とも言い切れないこの種の作品が作者の求めるひとつの方向であるらしいのはなんとなくわかってきた。かつて時代の証人たろうとした作家五味川純平の大河小説『人間の条件』や『戦争と人間』が文壇からはそっぽを向かれ<大衆作家>程度のレッテルをしか貼られなかった事実と照らすと、こうした作品が今後どの種の読者たちに読まれ、どの種の評者に受け入れられるかを想像すると、あまり楽観を許さない日本の読書界というものがあるのだが……特に天皇制を初めとしたタブーに関わるような本は、すべてこの種のあしらいを受けねばならない運命(さだめ)にあるかもしれない。

 さて本書は作者にとっては渾身の大作なのだと思う。朝鮮人の<私>によって語られる被征服民族の日本での虐待が、長く過酷である。主人公は虐げられた過去をひきずり、復讐の海峡を今日渡る。再び訪れる日本では何が待っているのか? といったサスペンス仕立てであるのだが、重みは過去の側にあり、サスペンスそのものとしての妙味はあまり期待しないほうがいいと思う。読みどころは主人公やその坑夫仲間たちの辿った地獄の宿命であり、「日本人よ、かかる歴史を葬り去ってはならぬ」という失われた時代からの警鐘であると思う。

 歴史を知らないぼくのような人間はこうした具体的な事例を突きつけられて初めて現代の理解への一助とできる。五味川純平の本はぼくの中で天皇制というものを大きく腑分けしてくれたし、当然ぼくは彼の作品で相当に打ちのめされた。確実に今のぼくの日本観を支えてもいる。『三たびの海峡』も同じ種類の匂いがする。この本はストレートに書かれて十分行けるだけの題材を秘めた作品だと思う。サスペンスの香辛料は全然要らないと思う。

 ぼくは昔朝鮮高校の生徒にカツアゲされかかったたことがある。高校の帰りに待ち伏せされて「俺は朝鮮なんだよ」と凄まれたし、「骨の一二本折る覚悟はあるんだ。おとなしく金を貸せよ」と威された。ぼくは一文無しだし腕時計さえしていなかったが、一緒にいた友達は財布ごと取られた。これは朝鮮高校と二三の私立高校との連日の対立という当時の緊迫した状況背景になっており、この雰囲気が県立高校の帰り道襲撃というリングサイドまで飛び火してもいたのだが、当時は彼らが日本の朝鮮半島占領の落とし児であることもあまり実感してはいなかった。ただ漠然と、日本にも人種的混沌があってこれが燠のようにくすぶっているのだな、という感覚を得てはいたのだった。

 今の高校生たちが同じことをまだ繰り返しているのかどうかはちょっとわからない。だがいずれにせよこの本が教えてくれる朝鮮半島から見た日本の悪の歴史を、日本の教育機関は相変わらず高校生たちには教えていないだろうな。それだけは確信を持って言えてしまうのだ。

(1992.05.07)