逃亡






題名:逃亡
作者:帚木蓬生
発行:新潮社 1997.8.15 第4版 1997.5.30 初版
価格:\2,300

 ----後半のみ【ネタバレ警報】

 重い題材というのは、簡単に言ってしまうとドストエフスキィ的なものとトルストイ的なものとに大別される。ぼくの一つの判別法である。そして帚木蓬生という作家のめざすものは常にトルストイ的なヒューマニズムであるように見える。ぼくの趣味から言えば、この作者の作家的感性に少し古臭さを感じる。またぼくには、正義感というものに対するある種の反抗的な精神があって、いつも素直には肯定できない類いの重さを感じるのである。

 この本で書かれていることは、教科書や一般書ではなかなか見つけられない歴史の襞の奥の真実であると思う。この一時代への興味と関心というすべてでもって、この本をぼくは手に取る。五味川純平の『戦争と人間』で示された時代、あるいはぼくの幼児期に多くの漫画・ドラマ・映画の中で掲げられてきたその時代。太平洋戦争という時代そのものへの強烈な好奇心がこの本を読ませるし、この本はそれにある意味で答えてくれる資料的な書物だ。

 しかしこれを小説として読む限り、どうだろう。訴えたいものは、「国家による裏切り」という歴史的事実である。またそのためにのみ書かれている作品という感覚が最後までまとわりつく。かつて『三たびの海峡』で感じたものと同断であり、これら社会的正義感というのは帚木蓬生の多くの作品群に置いても、ぼくにはなぜか少々鼻につく。小説の面白さを損なうほどに重過ぎる現実……とでも言おうか……。

 ぼくが娯楽小説というジャンルを選んで読んでいるのは、こういう事実を小説というフィルターを通してさらに真実として知りたいというところである。歴史的資料ではなく、雑然とした小説化でもなく、知的好奇心という面から、真実を晒してくれる小説の強烈なパワーとしか言いようのないものに期するところが大きいのだ。しかし、帚木蓬生はなかなかそれを与えてはくれない。かつて正義感よりもストーリーの冒険に重きを置いていたこの同じ作家の初期時代があったからこそ、最近のこの作家の変節が、ぼくにはとても残念である。たとえば船戸与一の作品、松本清張の作品らは小説としてのその種の目的を遂げてはいないか。要は、思想と小説とは、もう少し距離を持ってつきあっていただきたい。これが、日本の多くの作家たちにぼくが申し上げたい我が侭な要望なのである。

 さて、日本における終戦というのは、明治維新と同じくらい国家レベルでの価値感の逆転現象であったのだろうと、ぼくには想像できる。その二つの時代の「価値感による裏切り」を描いた作品の一つに、安部公房の『榎本武揚』があった。憲兵と隊士という二つの時代の犠牲者たちが、国家の裏切りに直面し、価値感の逆転から存在そのものの失速のようなところまでを描いている……秀作だと思う。

 とはいえ『逃亡』も最後の最後は感動的に終わってくれる。『ミッドナイト・エクスプレス』を我慢に我慢を重ねて見終えたときと同じ気持ちで、ようやく。でもそれは終わりではなく、現在へと続く一枚の歴史という岩の繋ぎ目のない現実であろう。ぼくは、この物語の終了後十年もかからぬうちに生まれているくせに、このあたりの歴史的犠牲とはほとんど無縁の半生を送ってきている。また自分の半生において係わってきた国家とその歴史的現実とが、今後のぼくにどう関わり続けてゆくのかを指し示してくれるものもなさそうだ。

 ただ、歴史と関わりながらもぎりぎり押し通す個人の資質というところがあってもそれはおかしくない話で、これは本書で拷問される側に多く描かれていることだ。残念ながら主人公の方は、捕縛でもされない限り、自己への罪悪心や犠牲者たちへの思いなどは薄らいでいる。かなり行き当たりばったりな印象すら受ける。他の仲間たちも同じで、国家批判はするが、自分らが処分した犠牲者たちには鈍い反応しか示していないように見える。彼らの内側での強烈な葛藤がもう少しあるというのなら、この重さは一転してドストエフスキィ的(日本では高村薫、海外ではエルロイが正当な後継者であるとぼくは信じている)な奥行きを持ってくれたのではないかと思う。それがないばかりにヒューマニズムという名の一方的な胡散臭さを、最後のところでぼくは感じてしまうのかもしれないのに……。

(1997.10.27)