砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない






題名:砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない
作者:桜庭一樹
発行:富士見書房 2007.03.10 初版
価格:\1,400

 最初にこの小説、在りき……、だったようだ。

 2004年11月、富士見ミステリー文庫という少女向けシリーズで登場した本作が、徐々に口コミで広がり、それをきっかけにライト・ノヴェル作家から一躍直木賞作家までの道を彼女は走り出した。

 それにしても、読んでみて唖然とする。これが少女向け作品なのか。これがミステリーなのか。いや、違う、これはまぎれもない暗黒小説の部類ではないのか。

 もちろんぼくは、まだまだこの作者の初心者である。『私の男』しか、今のところ比較できる材料はない。それにしても共通点はいくつか見つけることができた。海野藻屑という名の不思議少女が、山陰の田舎町の中学に転校してくる。いや、その前に、彼女がバラバラ死体で発見されたという衝撃的なニュース記事から、本作は始まる。何てこった!

 要するに被害者が転校してきて、バラバラにされるまでの一ヶ月間くらいの物語。その不思議な一ヶ月間を、実弾主義と称する現実家である山田なぎさがクールな一人称で綴ってゆく。貧乏な家に住む山田なぎさと、豪邸の住人である海野藻屑との不思議で噛み合わない友情。微妙に絡み合う男子中学生。

山田なぎさのひきこもりの兄・友彦が、また凄い。三年間家の奥の間に居座り続け、週に一度しか風呂に入らず、どこにも出かけない。だが、貴公子のように美しく、かぐわしい存在。語る言葉は神の領域にあると、なぎさは思い、愛情を傾ける。

 同じように、転校生・海野藻屑は、暴力的で有名な芸能人の父に対して、無償の愛を訴える。全身を痣だらけにしながら、不良な父への一方向的な愛を、暴力を受けるという理不尽な無抵抗によって表現する。しかし彼女の心は壊れている。自分は人魚だ、と信じてやまない。十年に一度、嵐の来る日に人魚たちは、日本海のこの町の海辺に集まり、ぷちぷちと卵を産む、と、そう言う。

 片手にミネラルウォーターのペットボトルをぶら下げて、足を引きずって歩き、時々ぐびぐびとその中身を飲んでいる海野藻屑の変てこなイメージ。暗がりでヘッドフォンの世界から出てこないなぎさの兄友彦のイメージ。そうした強烈なキャラクターだけに囲まれ、自らの貧窮を救うために、中学を卒業したら即、自衛隊に入隊することを決めている実弾主義の山田なぎさ。

 こうした作品世界の構図が凄まじい。山を背に、海が前面に広がり(山田なぎさ・海野藻屑、名前すら対照的だ!)、その間の田んぼが緑濃い波を作る。磯臭さと牛糞の匂いがブレンドされた田舎の汚い舗装道路の上を、とぼとぼと歩く二人の少女の小ささが、世界の巨大さの中でとても、頼りなく、そして切なく思えてくる。

 『私の男』では、北の黒い海の描写が、執拗に繰り返された。本書では、田んぼの緑の波の描写が繰り返される。

『私の男』では、父への逆らえぬ思いと、そこから抜け出そうとする強い意志の狭間にあるヒロインの現在の姿が、強く陰影深く切り取られていた。本書では、ストックホルム症候群を例に出し、暴力を振るわれながらも強く父への愛情に取り憑かれ、しかしそこから逃げ延びようとするか細い意志を友人に訴えかける少女の矛盾をカットバックさせる。

 残酷さという意味では、これ以上ないほどの残酷だ。それとともに、少女の側から見た内なる宇宙の豊饒さ。インナーワールドとしての閉鎖社会としての心。彼女らのいる世界は、単なる海辺の田舎町でしかないのだが、少女の中では、世界中の人魚たちが産卵に集まる祝祭の岸辺、なのである。

 やはり、文章の天賦を感じさせる作家である。亡き打海文三を想起させるほどに、桁外れのイメージを持った作家を見出した。そんな喜びにぼくは密かに震えている。

(2008/03/02)
最終更新:2008年03月02日 22:55