魔物





題名:魔物 上/下
作者:大沢在昌
発行:角川書店 2007.11.30 初版
価格:各\1,600

 大沢作品としては、驚くほど斬新なチャレンジである。日本の現代と警察捜査を描くことにかけてはトップランナーとも言える直球タイプの作家が、ここに来て、これほどまでの変化球を投げてくるとは、あまりに想定外だった。

 シベリアの、小さな教会で物語りは始まる。ロシア正教会に飾られるイコン、というものを、大抵の日本人は知らないと思う。もちろんコンピューターのデスクトップに貼り付けられるアイコンは、イコンから来たものである。この辺りを引っ掛けたパソコン・オタク・ミステリー『イコン』が今野敏の手で書かれていたり(FADVではどちらかと言えば不評だった)、フレデリック・フォーサイスの遺作がまさに『イコン』であった。本書は『魔物』というありきたりなタイトルになっているが、実際には他の二作よりもずっと『イコン』のタイトルに相応しい作品だったのかもしれない。

 但しこれは、繰り返すが、変化球であり、大沢作品本来の姿ではない。なぜなら純然たる警察ミステリーとは言えないからだ。ミステリーの核となる謎の正体の部分が、途方もなく現実離れしているのである。それも確信犯的に。つまりこの小説は、まさにタイトル通り、魔物との対決のドラマであったのだ。

 シベリアの教会から持ち出されたイコンに描かれたカシアンという魔物である。神から追われ、地域に災害をもたらしてきたとされる。あることから、このイコンはオホーツクの海を渡って、小樽に上陸する。カシアンは、乗り移ったロシアン・マフィアの姿を借りて小樽に惨劇をもたらす。これだけでも、通常の大沢ノヴェルではないことがおわかり頂けると思う。

 本来なら、こうした作り、というだけで腰が引けてしまうのだが、それがなぜか、読めてしまうのだ。一つには『新宿鮫』などと少しも変わらぬ、現実にある現代日本という土台の上に、魔物の物語を勧めてゆこうとする大沢流荒療治の、巧みさのおかげである。

 主人公の麻薬捜査官が、魅力的だ。心に傷を負っている。  天童荒太の『孤独の叫び』という小説がつい最近ドラマ化されたのを見たが、内山理名扮するヒロインが、高校時代に友人が殺されるのを、わかっていて見捨てて逃げたという過去を持ち、その記憶に苦しむ姿が印象的であった。  それと同じ状況を本書の主人公も抱えている。よく考えれば彼女・彼に責任はないのだが、あのとき、犯罪者と一緒にいる友人の訴えに耳を傾けることなく、何となく嫌な印象を持ったまま、脅え、その場を後にしたことで、その直後に本当に殺されてしまった友人がいて、その声を、ずっと悔恨とともに聴き続けている現在がある。トラウマである。

 だから捜査官になったという経緯も、二作においてそっくりである。今、自分にリベンジしようとしている捜査官の姿なのだ。

 一方で、魔物は、銃弾に倒れず、一滴の血も流さず、強靭である。まるで超人ハルクのような怪力。そして次々と、悪しき血を求め、犯罪者たちの体を入れ替わってゆく。まるで脳に寄生する飯田譲治の『アナザヘヴン』の怪物のようでもある。半ばSF、はたまたファンタジーか。  しかし、それでいながら現実面の方をしっかりと抑えており、緻密でリアルな捜査側の情報をしっかりと書き込むことで、奇妙な話をコチラ側の世界に引き寄せようという技を作家は繰り出す。だからこそ、読めるのだ。子供のファンタジーではなく、大人たちの小説として。

 海外で言えばデイヴィッド・アンブローズみたいな作家を髣髴とさせる。

 怪物を描き、その始末を、主人公刑事のトラウマの過去の時間に結び付けて、しっかりと纏め上げるその力技にこそ、この作品の魅力、大沢在昌という定番ブランドの信頼が込められているのかもしれない。

(2008/03/02)
最終更新:2008年03月02日 22:52