藪枯らし純次





題名:藪枯らし純次
作者:船戸与一
発行:徳間書店 2008.01.31 初版
価格:\2,100

 船戸の小説は現実に材を取ったものが多い。しかも現代のリアルタイムな紛争地帯に赴き、取材や調査を綿密に行うことで、その地帯の真実を小説という形で熱く謳い上げる。彼の作品をすべて、叙事詩、と呼びたくなる由縁である。

 しかし、彼は、時折り、そうした時代の代筆者という立場から離れて、黒澤映画のような娯楽色の強い純エンターテインメントを創出することがある。『夜のオデッセイア』『山猫の夏』『碧の底の底』『炎流れる彼方』、いずれも常なる歴史観や辺境ルポルタージュといった主題から離れた純然たる娯楽小説であった。

 舞台設定こそ異郷に求めてはいるが、その物語は、人間たちの欲望や狂気がもたらす謀略と破滅の物語であり、血と冒険を求めてやまない非日常的なるものへの飛翔に命を賭ける者どもの、矛盾に満ちた宿命の物語。そしてどれもがどこかで青春の物語であり、成長の物語でもあるように見える。

 そうした娯楽小説の中でも、日本を題材にしたものは数えるほどしか見当たらない。それらは、むしろどこか破滅色の傾向が強いように思われる。『海燕ホテル・ブルー』では、初めて、船戸が日本を舞台にしたどす黒い犯罪小説に手を染めた。しかし本書の原形に最も近いのは『龍神町龍神一三番地』の方だろう。

 五島列島の離島を舞台にした閉塞感のある村を舞台に、日本ならではの旧い因習と伝奇に捉われた、どろどろの情念をぶつけさせ、全体を破滅に向けて疾走させてゆく、あまりにも愚かな人間社会の標本のような小説だった。

 それから9年を経て、本書は、中国地方の山間にある鄙びた温泉町を舞台に描かれる。鄙びた、では遠慮が過ぎる。それどころか、どの宿にも客はいなく、どこも閉店休業状態で、若者は皆無。学校も閉鎖され、子供はわずかに一人だけ。村では老人ばかりが年金で貧しい暮らしを立てており、そのいずれもが煮ても焼いても食えぬ個性の塊ばかりである。どの描写をとっても一様に醜く、暗く、重たく、死の支度者たちであるように見える。

 母と姉が村の寺の同じ木の枝で首を縊ったとされる藪枯らし純次が、この村に戻ってきたのはつい最近のことだ。物語の語り手である高倉圭介は、純次の監視を依頼された東京の興信所勤務の調査員である。

 雪の舞い散る夜の温泉町を車で訪れるところから本書は始まる。夜の闇の谷底にいくつかの村の灯りが見え隠れし始めるあたりから。

タイトルにもある藪枯らし純次の渾名の由縁は、藪枯らしという多年草の蔓草のことである。その繁殖力で、周囲の藪まで枯らしてしまうそうだ。純次は、すべてを枯らしてしまうと言われる曰くつきの謎めいた存在である。その不吉さがなぜこれほど恐れられるのか。果たして彼の帰郷が、村に何をもたらすのか。

 孤立した村。閉鎖的な空気。性と暴力と物欲の匂いがこもる谷底の温泉町。村の歴史に纏わる秘められた血の踪跡。老人たちは、須佐から落ち延びたと言われる殺人集団の子孫なのか? 

 これは船戸版伝奇ロマンである。裸電球を潜り抜けた場末の映画館で、黄ばんだスクリーンにかけられた映画のようだ。つまり幼少時にぶるっと震える種類の幻夢の体験である。サーカスや、見世物小屋のような、妖しげな入口に見られるもぎりの案内人の前を、恐々と、しかしあまりにも旺盛な好奇心に背中を押され、間口を通り過ぎる。すると、そこには日常からひどく逸脱した奇妙すぎる時間が待ち受けている。船戸の筆でしか封切られることのない種類の極彩色の毒に満ちた劇場である。是非多くの方に足を運んでいただきたい。

(2008/02/24)
最終更新:2008年02月24日 22:39