迷宮のファンダンゴ





題名:迷宮のファンダンゴ
作者:海野 碧
発行:光文社 2007.10.25 初版
価格:\1,500



 第10回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作品『水上のパッサカリア』に続く、第二作。タイトル・イメージが似ているのは、続編であるせいか。シリーズ主人公にしたい、とい作者、あるいは編集者側の希望があるのかな。

 主人公は、孤児になった途端、アメリカによくある民間型の傭兵養成キャンプに送り込まれ、特殊能力を身につけたものの、影の任務から足を洗った中年の隠遁者である。隠遁者と言ってもプロフェッショナルの世界から足を洗っただけで、今は立派に、細々ながらも下請け専門の整備工場を経営している。

 第一作では、高原地方の湖の畔というちょっと理想的過ぎるほどの場所に彼は生活の拠点を構えていたのだが、本作では都下の町中の目立たぬ地域に仕事場を移している。そんな容易に場所を移動して商売が成り立つものなのだろうか、と思うが、この作家は考証が甘いのだろうか。似たような、非現実的箇所が多々見受けられる。

 ストーリーは、特殊任務に就いた工作員と謀略とに満ち溢れており、劇画的に楽しい活劇連続の展開なのかもしれないが、前作ともども中年男の主人公には、甘ったるい恋愛対象者の追想が常につきまとう。前作では亡き妻の想い出に、本作では少年時代の初恋の少女の想い出に。ある意味、どちらの作品でも、この作者は恋愛小説を書こうと意図したのかもしれない。

 それにしても活劇が下手だな、と思う。緊張感の感じられるスリリングなシーンを会話によって長引かせる方法は、いまどきはやらない。その呑気さぶりだけ見ると、まるで大昔の日活映画のようだ。それほどまでに、つまり活劇を犠牲にしてまで人間の内的ドラマを描きたいという気持ちはわかるけれど、ハードボイルドの手法ではこんなシーンでキャラクターたちにこれほど多くのセリフを言う時間を与えないだろうなと、乾いた気持ちで思ってしまう。

 日本人的情念を描きたいというのは伝わる。しかし、銃を構えて語り始めちゃ駄目だ、というのがもはや読者側のスタンダードな美学ではないだろうか。活劇を重視するのであれば、タランティーノ的に逆手法、たっぷり語らせておいて、銃を出した途端、あっという間に片をつける、という方がはやりである。海外でも国産でも。

 厳しいようだが、交通事項に見せかけて殺害するということは相当に小説的に困難なことであると思う。最新作『祝宴』でディック・フランシスが用いたが、成功には至らなかった。それを主人公の想像の世界だけで解決しようという安易な方法で読者が納得するかというと、そんなわけにはゆかない。

 この作者の文章の長さに辟易したのが前作であった。本作では前半部分ではその悪文を前作から引きずっているが、ストーリーが走り出した後半部では、かなりまともな文体に変わったかに思う。徐々に、書き慣れることにより、散文の良さが出てくる可能性ありか、と思われる。

 作者の略歴を見ると短歌の同人に所属している様子。それならば一つの単語の使い方までに拘るのもわかるし、日本語を重要な武器としてコントロールするという意味での技法的自信も充分に感じられる。この作者の得手な部分であるとは容易にわかる。受賞時にも評者が筆力を褒め称えていた。しかし策に溺れる小説というものを沢山見ているだけに、そこから脱出して何を描きたいのか?

 作品の炉心の部分がよく見えないところが最も気になる。逆に娯楽小説に徹するならば、作者のような晦渋な文章を駆使するべきではないと単純にぼくは思ってしまうのだが。

 エンターテインメントから離れて、書きたいと思うことを書いたときには、彼女の筆力はさらに生きるのではないかと思えるだけに、現状、残念な結果に終わっているような気がしてならない。

(2008/02/11)
最終更新:2008年02月11日 21:11