亡国のイージス






題名:亡国のイージス
作者:福井晴敏
発行:講談社 1999.8.25 初版
価格:\2,300

 手間ひまかけて精巧に作られた大型模型のような小説。他人が作りあげた精巧な模型を楽しめる人もいると思う。でもぼくのように大型模型の構造なんぞ、そのどこにも興味のない人間もいる。ぼくにとっては何が良いのか最後までわからない。すっごく教義的な作品であるように思える。

 ちなみにクイネルなどもそうなのだが、感情移入のできない小説というのはぼくは最後まで駄目なのだ。そして何に感情移入できないと言って類型化したキャラクターが駄目なのだ。人間を書いているとの風評に従って読んでみたけれど、ぼくはこういうのを人間を書いた小説と感じることができない。

 キャラクターにはぼくらとの共通点がもっとあっていいし、これほど感じ方の違うある種の人ばかりが横行する世界は、それだけで異端でなじみにくい。欧米の冒険小説を見ても、それぞれの書き分けはこれほど極端な精神の極地まではなかなかゆきつかない。この物語の主人公たちよりさらに戦いの中に身を投じた者たちの、もっとハートフルで親しみやすいストーリーなら欧米冒険小説にいくらでもある。

 でも日本の若い書き手が野心を持ってこうしたものを書き出すと、極端に走るしかない傾向がある。単純で極度過ぎる個人の過去も、国家間の軋轢も、小説のためのわざとらしい仕掛けにしか見えない。危機管理不足だけで日本人の全的な批判に結びつけるシンプルな国家主義も非常に鼻につく。個人へ走るかに見せる時には海を持ってくるしか能がない。

 確かに小説全般にアドベンチャー・ゲームを進めるような楽しさはあると思う。作者がそれで終わりたくないもっと人間のドラマをという気持ちも見える。そのために多くの紙数を費やして、ねちねちと執拗に書かれる揚げ句の主張が、結果的にぼくにとって気持ちが悪いものばかりなのが問題なのだ。そこにはきちんとした人間らしい屈折はないと思う。あるのは極度にしかも容易に耐えることなく屈折した過去、容易に屈折するだけの密度の薄い人間関係であって、世の中で多くの人が当たり前に持っているはずのあらゆる種類の本物の屈折は描かれていない。それが類型化ということだとぼくは思うし、何よりも肌で感じる。人間は誰もが少しずつ屈折していてそれが個性だ。そうしたところが小説を生かすのであり、極端な設定が小説を殺すのだとぼくは日頃思って本を読んでいる。

 一方、ナショナリズムを描くにしてもこれほどストレートに方向性を持たされる(しかも全員一致のナショナリズム)のはやはり読者としてつらい。では船戸は? 花村は? 高村は? と問いかけると、彼らの描くナショナリズムは、はるかに普通の屈折を見せてくれているように思われる。悲惨な過去だけで人間を大きく屈折させるという考えはあまりに安易に過ぎないだろうか。普通の人間の少しだけの屈折のほうがはるかにドラマティックだと思うのだけれど。

 すべてがよく油をさされたギア・システムのように収まりのよい小説である。とりわけこれだけの長大、これだけの大がかり、仕掛けが多いところ、さすがは乱歩賞受賞作家かなとも思う。でも、ぼくにとっては形を変えたスケールの大きい本格推理。多くの犠牲者を出すことには躊躇なく、逆に多くの主要登場人物たちをビッグ・ダメージからいとも容易に生還させるプロットはやはり大甘なミラクルとしか見えない。

 もっとエッセンスだけで書かれた小説ならぼくは歓迎したと思う。ラビリンスのようなプロットの面白さを取ってもいい。あるいは海という単純な生への憧憬を描くことに徹っしてもいい。またはその二つをどこかで融合させる輻輳プロットの妙でもいい。いずれにせよ、すべての教条主義を取り払って理屈だらけの会話部分を潔く削り去りと、いろいろな意味で贅肉が落された、よりタイトな小説であったなら、ぼくはこうした物語でも十分感じることができたのかもしれない。

 いずれにせよ、これはやはり壮大な模型であった。その壮大さは楽しむ価値があるのかもしれないけれど、それはやはり模型である。この人間たちの単純さ、説教臭さにぼくはついてゆくことができない。ぼくの考える娯楽小説はこういう善悪をはっきり住み分けたようなものではないのだと思う。最近の情報小説は、ぼくには小説にすら見えない。とりわけ悪についての描写が浅ければ浅いほど小説の奥行きはなくなっているように見える。リアルな悪をきちんと作ってみせるというのは、模型作者にはやはり苦手なのだと思う。

(1999.09.27)
最終更新:2007年12月31日 14:00