鎮火報






題名:鎮火報
作者:日明 恩
発行:講談社 2003.1.20 初版
価格:\1,800

 今日は日明恩『鎮火報』を読み終えたのだが、日本の小説をひさびさに読んだせいかどうも甘ったるくてべとべととしていて、辛気くさくて、理屈っぽくって、ストーリーがなくって、文体が時代に媚びていて、それでいてハードカバーで値段が高いというのには、実にまいった。図書館から借りてきてよかったとつくづく思った。もっと正直に言えば、借りてこなければよかったとも。

 日本の小説は最近は特に概して寿命(賞味期限?)が短いように感じる。目先の興味に走るものが多く、専門性という隘路に入り込んでしまって説明調になってしまうものが多いのだ。だから、一過性の小説といったものが平気で文学賞を取ってゆくような傾向にあって作家の寿命すらあまり長持ちするとは言えない。

 海外の半世紀前の新訳作品などを読み慣れてくると、小説の普遍性みたいなものをもっと大切にしていただきたいという思いが強くなる。作品の寿命や賞味期限ということに無頓着な作品ばかりが溢れかえっているように感じる。あまりにも現在に張りついてしまったような作品。題材に頼りすぎた作品。

 『鎮火報』の場合、消防士という職業にあまりにストーリー展開を委ねすぎてしまい、やはり説明が多すぎる。作者が消防署に興味を持っているのはわかるが、読者がそれに同調でもしない限り、これほど基本的で当たり前な道徳物語は楽しむことができないのではないだろうか。仕事がらぼくが消防署にはよく出入りしていたので、小説のほとんどを占める署の日常についての描写が耳新しいものではなかったということが原因であったとも思えない。それ以外の部分についても、しまりのない構成とエピソードの積み重ねだけでできた長編みたいなので失速ぎみだった。同時多発型事件のモジュラー型小説を得意とするエド・マクベインあたりならこの題材をずっとうまく料理してみせたことだろう。

 小説という散文の意味は、事細かに道徳を説明するのではなく、より具体的な出来事の集積によって読者の気を引きつけ、いつの間にかその奥にひそむものを表現してしまうという技術のことであるとばかり、ぼくは思っていたのだが、こう言う本を読むと必ずしもそうでもないのか、日本の文化はこんな本でも容認してしまうのかと、意気消沈してしまう。

 もしぼくが消防士の物語を書くとすれば、この小説のように使命感にめざめてゆくという成長型の消防士像は決して作らないだろう。それは個性を欠いてしまい、単純に物語としてつまらないからだ。この職業の性格であるストイシズムにおいて自己を抑制することができずはみだしてゆく悪徳消防士であるとか、現場に対する恐怖や謎のトラウマかなにかで気が狂ってゆく消防士の日々であるとか、一歩はみだすことによって消防署の持つ命の危険性の部分を、よりめりはりをつけて表現するだろう。

 海外ミステリーの持つこういう毒素の部分や読ませるテンポを日本小説が持ち始めていないわけではないと思う。しかしこんなにストレートに素直に小学生の作文の延長のような道徳小説を読まされてしまえば、さすがにぼくとしては少々呆れ返ってしまったわけだ。

(2003.04.01)
最終更新:2007年12月09日 22:15