愛情



題名:愛情
作者:花村萬月
発行:文芸春秋 2007.06.30 初版
価格:\1,790

 花村萬月という作家の本は、重たいと思われるものが多いのだが、時に、さりげなくこういう本が世に出ることがある。昔はこうしたものを短い長編作品でスピーディに作っていたこともあったのだが、最近は、最低限の極みという気配をどの書物にも忍ばせている。それは本書のような連作短編小説集でも同様の、この作家の姿勢だ。ぼくにはその姿勢が真摯すぎて、いつも眩しい。

 変わった構成である。すべては女性を主人公とした一人称短編小説。全八篇。その女性たちの誰もが、「情さん」と呼ばれる作家とのひと時の交情を語る。交情そのものが小説のメインテーマであることもあれば、交情は(あるいは「性交は」と言い直してもいい)作品のほんの副材料であって、そうでない独白部分のほうが主軸、と読み取れる作品も中には混じっている。だが、大抵の場合交情が(即ち「性交」が)、小説題材のすべてに近いのかなと、思われる。

 花村作品を読むに当たって、避けて通れないのが、男の発情と女の乱れである。即ち、濡れ場。この作家にとって、濡れ場は即、小説題材なのである。数限りなく濡れ場を読んでいて飽きることがないのは、この作家の濡れ場バリエーションの多さ、つまり表現技術の多様さ、奥行きといったものに通じるのだと思っている。逆に濡れ場を描けない作家たちの多くに、ぼくは作家的限界を感じ取ることが多い。

 誰もが経験する濡れ場には、世のAVが指し示すとおり、ほとんど特徴というものがない。下品な言い方をしてしまえば、男と女はやることが一つである。そんな普遍的な、生物としての本能が軸にある行為だからこそ、濡れ場を個別に描き分けることは難しいのである、と、ぼくは花村作品の濡れ場を読むたびに、思ってしまう。

 男と女の出会いと別れを描いた小説は世に無尽蔵にある。恋愛小説と言えない小説の方が、むしろ少ないくらいだ。だけど、恋愛小説には装飾がある。舞台がある。時計がある。状況がある。しかし、濡れ場は、そういうわけにはゆかない。百年の恋と、行きずりのセックスと間に、濡れ場の違いはあまりない。そう。男と女のやることは一つである。

 そうしたクライマックスとしての射精やオルガスムを目指して男と女が様々に読ませてしまうのが、花村文学である。暴力と性。死と生。そんな構図が見え隠れするものの、ここのところの花村恋愛小説は、徹底して男と女の距離感を見せてくれるところがある。

 この小説集に収められた八篇の物語を読むと、どの女たちも情という作家との距離が異なっているのがわかる。情という作家は、空気のようなものであり、ただの助べえ親父でもあれば、神でもある。女たちにとって、彼は浄化作用のようなものですらある。少なくとも情によって束縛されることはなく、情との普遍な人生という約束もなされない。あらゆる意味で、何かを凌駕した存在として情という人物像は浮き上がる。

 もちろん生身の花村萬月氏をモデルとして作中に昇華させた性の仙人のような存在として、極みに立つのが情。彼を「情さん」という名で愛撫し、嗅ぎ、舐め上げ、浄める女たちの方に、物語はその人数分だけ存在する。そうした女たちの物語を、情さんのモデルである作家本人が、書き上げ、そしてさらに昇華させるという、実に螺旋構造的な形として出来上がったものが、多分、本書なのである。現実と虚像とを往還する想像の歓びは、行間に無限に立ち昇るが、それは頭脳で味わうものではあるまい。

 癒し系リラクゼイション効果のある、幾人もの美しき女たちとの出逢いを、我々読者は情さんに成り代わって、味わうべきなのかもしれない。時には女は魅力的であり、時には退屈である。時間軸から解放されたこの不思議な短編小説は、ある意味多様で捉えどころのない花村作品という名のエッセンスであるのかもしれない。それは女というものに実によく似たものであるのかもしれない。

(2007/11/11)