純愛小説





題名:純愛小説
作者:篠田節子
発行:角川書店 2007.05.31 初版
価格:\1,400




 これは俗に中編小説集、というのか。昔から、短編と中編の区別がつかない。実際のところ厳密に何ページを越えると短編が中編になってしまうのか、というようなことは聴いたことがない。だからもちろん中編と長編の境目も定かではない。出版社が、中編といえば中編なのかな。短編といえば短編なのかな。

 そんな定義はどうでもいいことのようだが、やはり短編と中編の間には、読者の側にも何となく、短編らしいという手ごたえもあれば、少し中編としての複雑さが感じられるものなど、どことなく違いは感じ取ることができる場合がある。その意味では、この作品集は、まぎれもなく中編小説集なのだと思えなくもない。

 作品そのものが、短編小説の長さでは描ききれない部分までを照準に収めている、と言おうか。

 実際には50ページを少し越えた長さの作品ばかりである。短編小説というと、単純解釈では、あるいはイメージでは、50ページ以内っていうところであるかなと思う。それを越えると、その分書かれる内容が増し、散文傾向がより強くなり、削りに削り取ったという短編の持ち味からは少し遠ざかる。

 この作品集を読みながら、そんなことばかりが意識されてならなかった。どれもが、短編というよりも長編小説のような味わいに近いからだ。さらに登場人物を足し、シーンを足し、語り口をスローテンポにすれば、長編小説の流れにならなくもない。そんなイメージの本である。

 篠田節子としては、本書はホラーでもSFでもなければ、冒険小説でもない。さまざまなエンターテインメントを書き分ける作家としては、比較的純文学に近いという意味で1970年代頃に流行った「中間小説」といったジャンルに切り分けられそうな、いわゆる日常的な物語ばかりである。

 それなのに、ごく平凡に生きる市井の人々の生活の狭間に、唐突に闇が口を開ける。その闇もわかりやすいものではなく、なぜそんな種類の闇が人間の上に訪れてしまうのだろうといったそれ自体が、解明されるべき謎といった扱いにされている傾向が強い。

 どれも奇妙に人生を曲がってしまった人たちばかりの物語である。物語の必然としてか、中高年に人生の地軸を設定したうえで世界を回転させているものがほとんどである。人間は思い通りにはいかず、何かによって曲がり角を必ず曲がってしまう、といったようなある種の人生病の症例集のような物語ばかりである。

 とりわけ配偶者であろうと、親子であろうと、兄弟であろうと、友人であろうと、こうなって欲しいと思ったものとはあまりに別の存在になってゆくことの、愛憎まみえる他者への恐怖がおのれの立地点をぐらつかせる物語ばかりである。

 人生は立ち止まることが許されない、とでも言うように。そう。たまには立ち止まって自分を見直してみよう、などというもっともらしいアドバイスが巷間には満ち溢れている。しかし篠田節子のこの小説集の世界では、人生は立ち止まることが許されない、とでもいうように、突如開いた目の前の斜面に滑り込んで止まらなくなってしまう人間の慣性が描かれている。

 奇行の数々。その行動理由にメスを入れ、新たな切り口を見せてくれるのがこの小説集である。ストーリーは地味だが、感覚で楽しめる。作家の文章タッチの匠をこそ味わうべき作品集なのであると思う。

(2007/11/04)
最終更新:2007年11月04日 13:59