※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

病める狐





題名:病める狐 上/下
原題:Fox Evil (2002)
作者:ミネット・ウォルターズ Minette Walters
訳者:成川裕子
発行:創元推理文庫 2007.07.22 初版
価格:各\860

 3年ぶりの翻訳。私が待ち詫びているこの作家は一、二年に一作というペースで、継続的に作品を書いているが、シリーズものではなく毎作ごとに趣向を変え、全く新しい世界を展開する、つまり次の作品の傾向が読めない、という点に於いてとても優秀である。凝った丁寧な作風は、そうした作者ならではのペースがもたらすところが大きいのだと思う。

 本書もまた、これまでのすべてのミネット・ウォルターズ観を引っ繰り返すようなつくりとなっている。それは、いつもお馴染みの探偵役の女性主人公らしい人が、登場してこない、ということでもある。いわゆる主人公が定まらない群像小説なのである。というのも、これはある村に起こった特異な事件の記録であり、その事件が村の住人にもたらしたものごとをこそ、読むべき展開として提供している娯楽小説であるからだ。

 創元推理文庫の常として巻末解説はいとも簡単にこれはシンプルな推理小説であるということを書いているけれど、あらゆる先入観を捨てて読んでもらえれば、これが特定のジャンルを抜け出したウォルターズ独自のエンターテインメント小説であることは明白であると思う。この小説で扱われるある老夫人の変死事件は、作中でも自然死として処理済みであるばかりか、全体のストーリーの中ではほんの小さな材料に過ぎず、むしろ殺人事件そのものよりも、この村を急な騒動に陥れることになるのは、突然現れたトラベラー(漂泊者)たちの一群に端を発するものだからだ。

 別荘地である村外れのこの一角を舞台に、数少ない住人とその関係者たち、トラベラーたちの異様な行動が巻き起こすサスペンス溢れる衝突と暴力への気配。そして投げ込まれる狐の骸。フォックスという名の謎めいた男の暗躍。そうしたものが雰囲気を作る中で、次第に定まってゆくのが、ある一家の遺言書と遺産の行方であり、やがて作中ヒロインとしての輪郭を露わにしてゆく遺産の正規継承者であるナンシー・スミスの出生の秘密である。

 ヒロインは、里子に出され、現在はコソボで工兵隊に従軍する大尉である。女らしさよりも強さを前面に出した闘うヒロインであるが、彼女は、多くの登場人物たちの主観描写のなかの一角を占めるに過ぎない。そして遺言・出生の秘密を探る人物として、弁護士マークが重要な役を任じられる。

 クリスマスの翌日という長い一日に起こった、狭い村を舞台に、考えられる限りの奇妙な人々の葛藤と化かし合いを描き、居座ったトラベラーたちと、狐を放り込むサイコパスの存在、事故か事件か定かではない老夫人の死。見方を変えるだけで様々な光に照射される複数の真実は、芥川龍之介『藪の中』を想起させ、村を舞台とした歴史と訪問者の怪を描いてスリルを盛り立てる手法はあたかも横溝正史の世界のようにも見えてくる。

 違うのは名探偵が存在せず、登場する人間の数だけの複数の真実があるということかもしれない。真実を知るには幼すぎ弱すぎる10歳の少年ウルフィーの内面の描写などは、女流作家でなければ表現し切れない描写の限界に迫っている。その意味でこの作品は白眉である。

 数々の謎を閉じてゆく最終章だけを見ても、これは一般のシンプルな推理小説というわけにはゆかないと思う。謎を解決するためにのみ書かれた本ではなく、人の生き方の原因と結果、幸福のあり方、名誉の意味合い、闘いへの備え、心構え、理性の有用性、などについて、改めて検証されるような、非常に心理効果、あるいは癒し効果の高い作品でもあるということだ。すべてが解決されればそれでよしという従来型ミステリの型を破って、あくまで文芸の持つ力の一つとしての浄化作用(カタルシス)に重心を置いた作品だからこそ、本書は、CWA賞という英国ミステリの名誉ある評価を獲得したのではないだろか。

 ちなみにCWA賞は、この作者にして二度目の受賞。それだけの実力は誰もが認めるところだろうと、私は信じてやまない。

(2007/10/28)