名無しのヒル




題名:名無しのヒル
原題:The Moles' Cage (2004)
作者:シェイマス・スミス Seamus Smyth
訳者:鈴木 恵
発行:ハヤカワ・ミステリ文庫 2004.09.30 初版
価格:\680


 シェイマス・スミスの皮が作品発表ごとに一枚一枚剥かれてゆく。ある意味孤高であり、ある意味どこまでも独自であり、しかしそれぞれの作品のプロットが磨かれ抜いていて、読者をいつも新鮮な驚愕で包み込んでゆく。

 この作家のどこかに感じられる違和感は何だろう。常にそう思っていた。悪党の物語で幕を開け、復讐の物語で後を継ぐ。表現技術によって覆われたオブラート。すべての皮をはいだときにようやく現われる思いもかけぬ真実。その人を食った手法がシェイマス・スミスという作家を日本に運んできたものだと思う。それなりの評価を受け、それなりに異色であり続けそうな作家。

 本書はこれまでのピカレスクとは一線を画した非常に生真面目な物語。何しろ1970年代のアイルランド。政治的に怪しき者はとりあえずケージに放り込んでしまえという、現代では信じがたい政策の犠牲となった若者たちの失われし青春を描いた一作である。

 といえばなんとなく別の意味で聞こえがいいが、内容はブラックユーモアと表現上の極限的な皮肉に満ちており、途轍もなく空疎な明るさがやりきれなさをタフネスとサバイバル精神とで包み込んでいるあたり、誰が読んでもやはりこいつはシェイマス・スミスの小説なのである。

 ここまで前作と一線を画しながら本質的にシェイマス・スミスの黒い笑い。つまりは、皮肉なドラマを乾いたタッチで笑い飛ばす一人称の文体であり、歯をを食い縛り痛めつけられながらも次の作戦を練り上げる人間の好奇心の方向性であり、地べたを這いまわりながら愛すべき人間たちの救いを糧に生き延びようとする凄みである。

 この作品からぼくが思い出す作家は梁石日だ。絶望的な戦いを強いられる無産階級に近い底辺の国民たち。征服者たちの暴力と永い歴史がもたらす差別感や失墜感。あらゆる意味での幻滅に、突き刺さろうとする暴力。そうしたなかであくまで単純に生きることだけを考え、どこにも組せず、許し笑い飛ばす者たちの哄笑だけが、硝煙に煙る夜空に響き渡る。

 ホンモノの絶望を味わった民衆の血を絞り取るが如き叫喚をストレートにではなく、あくまで娯楽小説のかたちで、これ以上ないほどに活き活きと描ききった、作者渾身の自伝的ドラマであり、そこにはこれまで見えなかったこの作家の骨の色さえ見えそうな迫力が浮き沈みしているのだ。圧巻の一冊!

(2004/10/04)
最終更新:2007年09月25日 23:06