ミスティック・リバー




題名:ミスティック・リバー
原題:Mystic River (2001)
作者:デニス・ルヘイン Dennis Lehane
訳者:加賀山卓朗
発行:ハヤカワ文庫HM 2003.12.31 初刷 2004.2.15 4刷
価格:\980


 ゴールデングローブ賞の主演・助演男優賞受賞はショーン・ペンとティム・ロビンス、どちらもかつてヤング・アダルトという名で呼ばれた若き獅子たちの世代である。この世代は、主役と脇役が、作品に応じ、年齢に応じて多様に入れ代わり、独特の癖のある演技が光るという人たちが多いように思う。T・クルーズやM・シーンの息子たちも有名であったが、T・ハットン、K・サザーランドといった性格俳優系も印象的だった。

 そんな中で、とりわけショーン・ペンは、悪党、チンピラ、裏切り者といった負の役柄を演じるたびに凄味を発揮し、それでいて屈折の中に厚みのある演技が、ぴか一の印象を残した。本書のジミー役を映画で演じるには、この人を置いて他にないだろう。

 逆に酷薄な役柄を演じることの多いケヴィン・ベーコンが、上級階層の刑事役をあてがわれているあたりは、相当にひねくれたキャスティングであるように思う。ショーンペンと逆の役であればどうだったかということも、ぼくは散々想定したが、そちらも悪くはない。よりありきたりのキャスティングになり、その場合アカデミー作品になり得たかどうか、興味は尽きないところだ。

 この作品中、最も複雑で、壊れた内面を演じねばならないティム・ロビンスはもちろん『普通の人々』での凄まじい演技力に裏打ちされた役者だ。すっかりフィットしていそうな役柄だ。但しハイスクール時代に花形野球選手だったという設定を除いて。

 映画については、未だネットで予告編を見ただけの段階だ。それでも本書を読んでずっと想念に上がってきたことは、アクセントとなりそうな映画的シーンや、俳優たちの深みある演技への、大きな期待感だった。読みながらも、映画が脳内で先行してしまっている。つまり、俳優の顔を思い描くことなくこの作品に取り組んだ初期の読者のようには、今回のぼくには想像力の幅がないのである。それであっても十分に読み応えを感じさせてしまったのが本書。逆にキャスティングの妙に支えられたと言ってもいいと思う。

 大作であり、また名訳である。これほどぞくぞくと読める本はそうはないと思う。よくぞ映画という二三時間限りのコンパクトな表現世界に閉じ込めることができたものだと思う。

 さて、運命を暗示する川というイメージ、たびたびリフレインされる立ち去ってゆく車の追憶、と、実に映像感溢れる光景が、作品の根底にずしりと居座っている。象徴的なシーンが連続する。時間の靄が多くのひずみを埋めてゆく。住人たちの心の皺のなかに多くの語られぬ言葉を埋め込んでゆく。時が過ぎ、戦争があり、貧困は、見た目には一掃され、貧富の境界が消滅したかに思われる。何もかもが曖昧で混じり合ったものになる。明確な愛や憎悪は、すべて混ざり合って見えなくなって、安定してしまう。そうした時代のある夜に、あまりにも宿命的な血が流されることになる。その血はいったい誰の流したものだったのか。

 ミステリーとしては、事件自体の表面はシンプルなものである。マクベインあたりなら100ページに纏め上げそうな謎解きに過ぎない。しかし、この小説は、事件そのものよりも人間の光と影に焦点を当て、執拗なまでにディテールにこだわり、その心の移ろいに目を凝らしてゆく。

 自分のなかに、収まりのつかないけだものを飼っている三人の男たち。翻弄され、暴走してゆく女たち。そして何よりも本書の事実上の主人公と言えるのが町である。町の上に降りかかる時間という試練と、そこに生き、老い、死んでゆく住人たち。多くの人々の目線に晒され、歪んで錆びてゆく物語。

 事件は起こり、嵐を巻き起こし、まるで何も起こらなかったかのように終熄してゆく。その後には、事件を生き延びた人たちが、同じ町で同じ暮しを同じように営み続ける。心の中に多くの空洞を抱え込んでいるにしても、それらはまるで何事もなかったかのように、継続されてゆく。

 思えばマイケル・チミノの『ディア・ハンター』も、真の主人公は一つの町であった。そこに生き、他国で戦争が起こり、生き残った者だけが、また町の続きを生き始める。あの映画の記憶が掘り起こされるかのような、悲しく、切なく、しかしどうしようもなく人間によって作られる悲喜劇こそが本書であるのだ、とぼくは思う。

(2004/03/27)