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コタンの口笛


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題名:コタンの口笛 全4巻
作者:石森延男
発行:偕成社文庫 1957年初版 1976.09 初刷 2003.04 10刷
価格:各\735

 北海道に住んでいながら、アイヌをテーマにしたこのあまりに著名な児童文学を読んでいないことに、正直、引け目を感じていた。本当は、北海道に住むずっと前から、私は相当な北海道ファンだったから、北海道の自然、歴史、先住民族といった独自の問題に並々ならぬ関心を寄せていた。北海道の本にはこだわっていた。

 さらに打ち明ければ、本書は少年の頃からずっと読みたかった本でもあった。タイトルに何となく日本離れしたエキゾチズムを感じ取り、憧れていた。そういう欲求に、最初に火をつけたのは、少年サンデーに連載されていた手塚治虫の漫画『勇者ダン』だ。コタンというアイヌの少年と、ダンという虎(なぜ虎?)を主人公にした冒険物語だったのを、今、紐解けば1962年連載だから、私は6歳、小学1年生のときに読んだのだ。毎週継続して読むほどの贅沢は許されなかったから、連載のたった一回分だけを読んだのだと思う。森の中、焚き火と藁小屋の生活を送るアイヌ民族、髭モジャのウタリ、そんな存在が私の記憶の中にその時刷り込まれることになる。

 長じて、コタンとはアイヌの部落のことを表すと知り、北海道の歴史の中で、和人がいかに先住民族をかどわかし、新しい大地を侵略して行ったかを私は学ぶ。侵略者の側として北海道に住んでいる事実に、どことなく居心地の悪さを感じる歳月を、これまたただ無闇に送るというのではなく、より知ろうと想う。アイヌの文化を知りたいと願う。自分らの祖先であった縄文文化を、ごくごく最近まで伝えてきた種族が、何と自分の住む国の中に現在も共に生きており、かつての文化は言語とともに失われるかもしれない、という危機的事実を認識しようとするときに、それはごくごく自然な感情であったと思う。彼らを知りたいと思う気持ちは、北海道を知りたいと思う気持ちを、ともすれば凌駕しそうになる。

 さて、そんな個人的な欲求に火を点けられたのが、先に読んだ花村萬月『私の庭 蝦夷地篇』。奇麗事で先住民族を見がちになり、それがもとで却って大上段に構えようとする和人側の目線を嫌悪し、むしろ自然体で、個と個の間に立ちふさがる民族の違いをありのままに捉えようとする主人公の感性の有り様に、とても驚いてしまったのだ。その感性を自分のなかで何度も咀嚼しながら、今こそ、あれほど長い間読もうと願いつつ読むことのなかった『コタンの口笛』を開く時だと、自然体で思えたのである。

 半世紀前に書かれた本書である。今、手に入るのは、偕成社文庫の四巻形式だ。二巻ずつ一部「あらしの歌」、二部「光の歌」に分かれているが、手に取れば連続しており、まず一気読み間違いなしである。

 この作品は、アイヌの生活、和人による差別、人種混合教育の現場でのトラブル、アイヌの生活を支える文化、自然信仰のさまなどを、アイヌ人中学生である姉弟の日々を綴ることによって、ダイナミックに描いてゆく。和人による歴史的侵略や、その後のアイヌ民族の貧困や疲弊した姿が歴史と相まって浮き彫りになってゆくが、どれもこれも子供たちの目を通してのとても純粋なもので、感覚に直接彫り込まれるイメージの独特な文章が、今読んでも、かえって斬新だ。

 逆に大人向けの小説では表わせない、子供ゆえの感性に従った擬音や、感情への勝手な名前付けにより、世界が何もかも生きる息吹で満ち満ちているように感じられる点など、驚きに値する。後でページを繰りなおし、どこのページでもいい、何度でも読みたくなる、声に出して読みたくなる、そんな文章リズムは、作者が詩人であることも関係しているかもしれない。独自の文学観により、児童文学というスタイルを選択した作家の、これ以上ないという表現が迫ってくる。それが溢れるほどのダイナミズムと、子供の命のおおらかさを表現しているようで、何とも味わい深い。

 物語が進むにつれ、徐々に差別の問題は大きくなってゆき、一時は救いのない状況が姉弟をとらえようとする。デリケートな姉と弟の心の動きが悲しくて、涙を禁じえない場面がたっぷりあり過ぎ、困る。

 もうアイヌ民族は300人くらいしかいないんだ。俺たちは滅びようとしている種族なんだ。だったら最後の最後に、燃え尽きる前のランプの炎みたいに、ぱっと大きく輝いてやろうじゃないか。こうしたセリフを、我々が通常耳にすることがあるだろうか? 私はもちろん、こうした凄みのある言葉を交わす子供たちを見たこともないし、これは滅びるかもしれないと感じる側の内なる感情なのだとも理解できる。

 本書中でも、子供たちは学ぶことにより、ヒトラーがユダヤ人を滅ぼそうとした歴史を知り、自分らの置かれた危機的状況をある程度客観視できるようになる。

 ルワンダでツチ族をこの世から滅ぼそうとしたジェノサイドを描いた映画『ホテル・ルワンダ』では、世界はこのゴミみたいな種族がどうなろうと関心がないんだ、というツチ族の言葉がとりわけ痛みを残したものだ。

 滅ぼされようとする種族の側から見た、支配者による同化政策、先住民族との共生の問題、あらゆる地球的課題が、先送りされてきたが、先住民族権利宣言がこの9月にも国連で採択される方向にあると言われる。北米の国家たちはもちろん反対するだろうとの見込みだ。ちなみに日本はこれまで棄権してきた国家である。

 文学は政治ではないが、人の心に真実を突きつけ、ある種の態度を求めようとする効能くらいは、優れた小説であれば、作者のモチーフはどうあれ、結果的に持ち合わせているものである。だからこそ、作者の意図とは別個のところで、読者は、男泣きに涙を流したりもするのだ。そんな作品は、大抵の場合、時代を貫き、独り歩きしてゆくものなのだ。本書のように。きっと、おそらく、永遠に。

(2007/09/09)