私の庭 蝦夷地篇





題名:私の庭 蝦夷地篇
作者:花村萬月
発行:光文社 2007.01.25 初版
価格:\2,400




 浅草篇を読んだのが随分昔なので、多くの詳細は忘れてしまった。覚えているのは、権介が士農工商のヒエラルキーから外れた存在の記録されない無宿人であるということ。そんな権助が幕末の浅草で、刀の修行だけを研ぎ澄まし、人斬りになって、縄張りを後にしたところで浅草篇が終わったということだけである。

 なのでいきなり蝦夷地篇を開いたものの、過去の人物、十郎だとか爺だとか夢路だとかが、誰だったのかを確認する為に、何度か浅草篇のページをぱらぱら繰り直さねばならなかった。

 しかし、本書は浅草篇という過去を引きずりはするものの、権介以外の登場人物は一新している。舞台だって津軽から海峡を渡り、渡島半島のどこかの浜に漂着するところから始まる、いわばサバイバル小説の領域である。著者唯一の時代小説は、同じ時代小説でも人の住まわない領域の時代小説に足を踏み入れてしまった。獣たちや天候との戦い、生きるために食う、食うために狩る、狩るために道具を作る、そんな原始生活のディテールが権助の蝦夷地篇では延々と続く。

蝦夷が北海道に名を変えようという時期、五稜郭戦争が収束してすぐの道南である。札幌はまだ7名ほどの和人しか住んでいない時代。蝦夷はまだ先住民のもので、和人による収奪が既に始められている。

 すべてが混沌としている函館は、船戸与一『満州国演義』の雰囲気に似た空気が漂う。日本の領土を先住民から奪い上げ、未開拓の沃野を農地に変え、アイヌだけの海を金のなる王国に変えようとしている時代だ。金や漁獲の簒奪よりも、激しく民族を怒らせるのが、何と言ってもことばまでをも奪い取ろうとする同化政策である。満州侵略は、すでにこの時点で北海道にて経験されていたものであったのだ。二つの舞台の空気がどこか似ていて、当たり前である。

 ことばで飯を食う花村萬月がこだわってみせるのは、アイヌらが日本語を喋れるのに、和人はアイヌ語を知らないことへの不公平性である。どんな掠奪よりも、ことばの不公平さが明確に表してしまうのが侵略者と虐げられし者たちとのコントラストなのである。士農工商どころか、自らが何の民族で、どの国に所属しているなどの意識を全く持っていなかった権助を通して、そうした民族の差、国のかたちが純粋に浮き彫りになってゆく様は、圧巻である。

また、権介とともに海峡を渡った茂吉という若者の人生が、もう一つの蝦夷地篇の軸となっている。もちろん浅草篇には登場していないが、本編では重要な役割を果たすことになる。名もなき漂着地にて権助より剣術を指南された茂吉もまた、貧しい漁師の子だったが、次第に気を清ましてゆく。剣の道は、権助にも茂吉にも、独自の力を内面から与えてゆく。混沌の函館で茂吉は権助と別れ、侠客として名を成してゆく。剣という力を揮うことで、茂吉の人生はねじれてゆくのだが、権介と今後どこかであいまみえることになるのは、もう間違いない。

 歴史という縛りの多い小説形式に材を取って、しかも『たびを』などでも知られる著者の北海道好きや、野宿旅に代表されるように手付かずの自然への愛着などが、様々な形でこの作品には取り入れられているように見える。同じく、北海道に流れ着いた私の人生、山登りで培ったありのまま自然への焦がれるような想いは、作品の中で、思いもよらぬ歓びを招き寄せている気がする。

 逆に北海道に住みながらも、和人によるアイヌ文化に対する簒奪の歴史の具体像を知らぬことを、改めて思わせる。それが歴史であり、北海道なのだと言えばそれまでだが、さまざまな興味に満ち溢れているのが、この時代小説版北海道創世記なのである。そう言えば、船戸与一『蝦夷地別件』は事実に根ざした根室でのアイヌ部落根絶という血腥い物語であった。

 よもやこうした重たい歴史に関わる、ある意味社会的とさえいえる小説を花村萬月という人が書くとは思わなかったが、それを権助や茂吉という曇りのない純粋なる無知という視点で描いてゆこうというところが、萬月らしい、といえばこれ以上ないほど「らしい」!

 さらに北海無頼篇へと本作は続いてゆくようである。長大な歴史を綴る新しい眼差しの小説として、本書は途轍もない記念碑的作品として成熟してゆくのではないか。注目して追い続けてゆきたい。

(2007/08/26)
最終更新:2007年08月26日 13:49