アパルーサの決闘





題名:アパルーサの決闘
原題:Appaloosa (2005)
作者:ロバート・B・パーカー Robert B. Parker
訳者:山本 博
発行:早川書房 2007.06.15 初版
価格:\1,900


 ウエスタンを人がどう描くのかよくわからない。ウエスタンは映画館で見るものであり、活字で読むものではなかったからだ。あの独特の間、映像、日常世界からからこれほど遠いところで展開する途方もないドラマを、映画だから許せていた、というような感覚すらある。だからパーカーが『ガンマンの伝説』を書いた時には、スクリーンでは寡黙なガンマンも経済生活のなかに組み込まれて給金を得たり、家族を養っていったりしなければならないという、そういう当たり前の、我々に近い現実的な方向にちょっとだけスライドしているところが奇妙な手触りとして、残ったのだった。

 それに較べると、佐々木譲の北海道開拓史を背景にした銃撃小説やら、逢坂剛のウエスタンやらは、スクリーンそのままに活劇、また活劇というすっきり感、夢想感がどこまでもあり、これは日本人の少年であったわれわれの代表的ウエスタン・ファンの声とも言える総括的イメージだったのだと思う。映像は活字になる時に、そう多くのフィルターを通さず、無邪気にメディアの格差を潜り抜けてしまった。

 そこで、再度、パーカーはウエスタンを書く。世界の市場のペーパーバック・ライターの多くがウエスタンを書いている、そんな作家的立場からの動機が彼の底にあるのかもしれない。あるいは、現代の都会を背景に描いてゆく男たちのドラマが、少しばかり猥雑な背景の中で直進させにくくなってきているゆえに、原点回帰といったような欲望が彼の中に擡げてきたものなのかもしれない。

 しかし本書は、前作よりも私のイメージするウエスタンに近づいている。前作はワイアット・アープという実在の人物の家族兄弟までをも巻き込んで描いた彼の人生物語である。最後に有名な決闘を持ってくるものの、そこに至る人生の変遷とアメリカの時代背景について、それなりのページを割いているので、こちらもイメージが狂わされた感があった。本書は、架空の街、架空の人物たちによって闘われる決闘である。本書のヒーローは金のためにではなく、必然のために働く。街を移ってでも生き方を変えずに来たのは、彼が流れ者でありながら、規律に則って生きて来たからだ。法を常に必要とするが、それは彼の我流の法ではあるが、少なくとも町に制定をし、そこからすべてを始める。彼には守るべき規律が必要なのである。

 この作品は、一人称で描かれた、友を主人公とした物語であるが、同時に語り手である「俺」の成長の物語でもある。どちらも銃の使い手であり、どちらも修羅場をいくつも潜り抜けてきた様子である。しかし、タイトルの町アパルーサに辿り着くまでの紆余曲折などは、ほんのわずかしか描かれていない。むしろ彼らの現在の行動を書くことにより、作家は彼らの過去を匂わせてゆく。ハメット的手法を選択しているのだ、明らかにチャンドラーではなく。

 そう、同じハードボイルドの書き手であっても、ウエスタンはむしろハメットのようにに心情描写を極度に排除したところに、らしさが立ち現れる。映画のウエスタンの主人公ら同様に、活字という表現の上においても、彼らは心情を吐露せず、ひたすら生死を分かつ選択を迫られ、それを決断し、行動し、結果はやってみなければわからない。この博打性こそが決闘の真髄であり、必ず勝つウエスタンから、後期には負けるウエスタンまでが存在したのである(「殺しが静かにやってくる」「さすらいのカウボーイ」等)。その生死の博打性を描けなければ、もはやウエスタンではない、のかもしれない。

 ただ後半締めくくりになって、本書もまた前作と同じような煮え切らない形を取りそうになる。時代が変わり、生き延びる形が変わろうとしてゆく。ガンマン不要の時代がついそこまで足音を立てて迫っているかのような気配が。

 だからこそラスト・シーンがしっかりとウエスタンで終わってゆくことが私にはたまらなく嬉しかった。そう、ウエスタンは単純であらねばならないのだ。ロマンとはシンプルなものであらねば。

(2007/08/12)
最終更新:2007年08月12日 22:48