不屈




題名:不屈
原題:To The Hilt (1996)
作者:Dick Francis
訳者:菊池光
発行:早川書房 1997.10.15 初版
価格:\2,000



 読書感想文の書きにくいタイプという本はあるものだけれど、今はフランシスの競馬シリーズがけっこうぼくには書きにくい。ある一定のレベルで巧く、内容もよく、完成度が高いだけに、これが新人のものであるなら絶賛するのだけれども、ディック・フランシスなのだから、そんなレベルは当然キープしている、との保障が既にある。

 例えば「フランシスにしては大したことないかな」と囁き合う作品にしても、そこらのミステリーと比較すれば、やはり完成度の高い、いろいろな角度から楽しめる娯楽小説であることはたいていの読者には自明のことなのである。それほどまでの完成度をキープし続けている理由は、一年一作というスローペースだあることと、それにもう一つは、作風を変えないのであまり質が落ちないというものだろう。

 作風はわずかにひねられることはあっても、基本的には同じである。警察にはあまりお世話になりたがらない自主独立の主人公が特殊な職業で特殊な技能を持っていたり特殊な知識を持っていて、そこに非常に悪意の強い人物がたいていは金財産を目当てに何等かの形で関わってくる。平和だった日常は悪党たちにかき乱され、主人公はやがて思いもかけぬ苦境にさらされて、決意を新たに対決してゆくというところであろう。

 本作も上の状況を見事に再現している。たいてい苦境、もしくは命の危険に晒されるのは終盤が多いのだが、本作に限ってはのっけから、というところが珍しいかもしれない。主人公に関わる脇役の存在感もまたいつも通りで、事件意外に複数のそうした人間関係の急転などにも晒され、事件と同時にこうした日常生活の変化の方にもきちんと対応していかねばならない。そんな点もこれまたフランシス的世界と言えるだろう。

 かように「水戸黄門」的な、起承転結の約束された話がほとんどであるのだが、毎作楽しみなのは主人公の職業や特技であり、このあたりのバリエーションは、フランシスの下調べの確かさを感じるし、それより何よりフランシスが小説の小道具をきちんと楽しみ生かしていることを感じさせられる。この点でも、フランシスの作家としての技術の確かさはいつものように証明されている。

 かように「いつものように」が多くなるのである。誉めても誉めても「いつものように」であり、それがフランシスに向かうときのぼくたちの安心感である。シッド・ハレーもののようなシリーズにおいてすら展開形式は似ている。『奪回』で見せたような別冊的なある特殊な構成、ある特殊な作風というのも、実は密かに楽しみにしてはいるのだが、あれはあれで相当な作家的冒険になるということなのかもしれない。

 老境に差し掛かっているフランシスには、一冊でも多くの作品を書き続けて欲しい。何十年も同じレベルを保って本を書いている作家というのは、意外に希少価値が高いものである。フランシスは、そういう意味で唯一無比の優れた人生を送られている作家である。いつもながらそのように敬いつつぼくは静かに心穏やかにこの本を閉じるのである。

(1998.06.29)
最終更新:2007年07月15日 23:47