本命




原題:Dead Cert (1962)
著者:ディック・フランシス Dick Francis
訳者:菊池 光
発行:ハヤカワ文庫HM 1976.6.30 初版 1989.12.15 9刷
価格:\480(本体\466)

 ぼくはマクリーンもバグリィも一冊も読んでいないし、山好きでありながらボブ・ラングレーもトレヴェニアンも読んでいない。考えてみればそれにも理由があって、冒険小説を読み始めたのが三十代に入ってからということが一つ。もう一つは、このどうにもおさまりのつかない一点集中型読書傾向にあると思う。一人の作家に狙いを定めると徹底してその作家に懲る、という実に偏執的な読書傾向であると自覚している。いよいよその偏執的な視線がようやくフランシスに向けられることになったので、新刊の嵐にでも見舞われない限り当分の間は<競馬シリーズ>を読み続けることにする。

 またこの偏執的な性向は、その作家が気に入ると一層拍車がかかってゆくという顕著な性質もある。そこで、第一作『本命』。主人公である一人称の私こと騎手アラン・ヨークのレース・シーンでいきなりスタートする。フランシスを読みだす読者にとってはこたえられないシーンであるが、同時に悲惨な事件が起こるシーンでもある。親友の事故死。

 事故であることをくつがえす謎の針金。背景に見えかくれする八百長レース・グループの黒い影。サスペンスが徐々に盛り上がり、大がかりなクライマックスへ届いてゆくのだが、前半のやや地味な展開にくらべて名障害馬に乗っての華麗なクライマックス・シーンはとても素晴らしい。一読者を即座にフランシス・ファンにさせてしまう魅力あふれる名場面である。

 映画『大脱走』のマックイーンを髣髴とさせる障害馬の使い方は思わず拍手を送りたくなる。読書的カタルシス。このシーンだけでもぼくは、ああ、フランシスは素敵な作品を書く作家なのだな、と嬉しくなってしまった。そのときには、この作家の本なら苦もなくすべて読破してゆけそうだと確信できた。

かつて87分署を読み終えたとき、評論家のS口E生氏から「次は何シリーズを読むのか」と問われた。「そんなにシリーズに取り組みたいのだったら、フランシスの競馬シリーズは当たり外れがなくてよいぞ」と薦められた。「フランシスの凄いところはまあまあというような半端な作品がないことだ。ヒギンズやマクリーンのような作品によるバラつきがはなくて、フランシス作品はすべてがあるレベルに到達していることだ」と。

 以来一年半近くが過ぎてしまったが、遅まきながら今やっとフランシス作品に取りかかり、その言葉がごく自然に思いかえされてしまった。完成度の高さ。それが期待できる作家とのこれからの永い読書生活。その戸口をぼくはくぐり抜けたところにいる。