利腕




題名:利腕
原題:WHIP HAND (1979)
作者:DICK FRANCIS
訳者:菊池光
発行:ハヤカワ文庫HM 1985.8.15 初版 1991.11.30 13刷
価格:\520(本体\505)




 『大穴』のシッド・ハレーの続編ということで、連続して読む楽しみを満喫させてもらった。さて最初に言っておくが、ぼくの読んだフランシス6冊では、本書がずば抜けた傑作である。これまでの作品のそれぞれも素晴らしいが、主人公を最も深追いした作品、そして作家の描きたいことを最も深く掘り下げ、最も丹念に描写し得た作品という意味で『利腕』はずば抜けていると思ったのだ。この書で作家のメッセージをうまく受け取ることのできない人は、フランシス作品の存在自体にあまり意味を感じ取ることができないのではあるまいか? まあ、それほどまでに本書は表現力の豊かな作品であるように、ぼくは感じたし、それだけどっぷりと作品世界に浸かって夢中で400頁を繰ってしまったということだ。

 中でも、脅迫によって自己破壊・自己蔑視の極限に追い詰められた主人公が、恐怖を乗り越える過程の描写は素晴らしい。具体的には熱気レースに身を投じる男との出会いのシーンは、いつもぼくのいう小説的カタルシスの最たるもの。自己を如何に卑下しようと周囲の人物の眼に映る彼の姿は、読者の眼と同等に、ある種の尊厳に生きる男でしかないのである。それは恐怖を克服することでチャンプをものにしたことのあるシッド・ハレーの経歴であるし、前作「大穴」で過酷な闘いの中で、相手を捩じ伏せたハレーの土俵際での信頼性である。

 『利腕』には、複雑に絡み合った4人の依頼主と3つの事件がある。うち2つの事件は、ハレーたちへの先制攻撃・脅し・暴力に満ちている。それらは、常にそうした危険の大きい職業に付随してくるはずの命題であり、シッドのような男の存在への思い詰めた問いかけでもある。

 読み所は沢山ある。シッドと対極的な性格にある相棒、チコ・バーンズとの友情や信頼は最後の最後まで魅せてくれるし、過去の妻や新しき恋人との心の回路図面はデリケートで脆くできている。義父との、立場を越えた信頼関係や、調教師が「乗れよ」と差し出してくれる名馬フロティア。縦髪と風のそよぎに、凭れかかる一瞬の安堵。また非情な暴力のさなかで、そのフロティアや、過去の障害レースでの優勝や、気球に憑かれ楽しそうに青空を舞う男のことや、新しい恋人を思い自らを鼓舞するシーンは秀逸であった。ぼくはこのスポーツ感覚がたまらなく好きなのである。

 アメリカ探偵作家クラブ賞・英国推理作家協会賞受賞作品。

(1992.02.28)
最終更新:2007年07月15日 23:03