転倒



題名:転倒
原題:KNOCK DOWN ,1974
作者:DICK FRANCIS
訳者:菊池光
発行:ハヤカワ文庫HM 1979.9.30 初版 1990.11.30 9刷
価格:\520(本体\505)

 この本だけは二十代で読んでいた唯一のフランシス作品だから再読ということになる。今も上司がくれた表紙のないその本はあるけれど、きちんと表紙を本箱に並べて見せなければ気の済まない几帳面な性格のぼくは(誰だ、笑っているのは!)再読に当たって、ちゃんとまた奇麗な本を買ったのである。どうだっ !

 さて再読というのは奇妙なもので、同じ印象を得る本も当然あるのだけど、全く違う印象を受ける本書のようなものがあってけっこう不思議で不可解で、多くは人生の謎に満ちている。正直、初読時の感想は、フランシス初体験だったこともあって、基本的に「地味なミステリーだなあ、もっと面白いのがいいや」であった。その中にちょっぴり「英国的気品が感じられるなあ、もう少しオトナになったらこういうのがさらに味わえるのかな」なる言葉を、ぼくの幼稚で独特な二十代(当時はぼくは山男でしかなかった)の感受性が予感したりいたりもした。

 そしてもう否が応でもオトナ以外の何者でもなくなった36才も終わりに近づいたぼくが、この作品に向かい合ってみたのだが、やはりわかっちまうのですね、この作品の面白さが。 真髄が。 味が。深みが。コクが。妙味がね。それは、確かに『本命』からこの方、フランシスに馴れ、英国競馬界に馴れ、ミステリに馴れ、冒険小説に馴れ、男たちの心意気に馴れてきているということも大きいとは思う。でも、他の達者な二十代ならともかく、頭よりも身体を使ってばかりいた、命まで賭けて山しかやっていなかったぼくの盲目の二十代にはやっぱりこういう本の地味な味わいはわからなかった。

 それがまさに、そうして山を盲目的に登り続けていたからこそだと自分では思うんだけど、フランシスのいつも書かんとしていることがぼくはわかるようになってきた。スポーツマン・シップで読む本が、この競馬シリーズであり、フランシスの真骨頂であるような気がする。だから一時期何かスポーツ(とは限らないと思うんだけど)などに打ち込んだ輩にはわかりやすいのではないかな? フランシス作品の主人公たちのフェアな生きざまは。

 さて本書でも主人公は重荷を背負っている。その一つは脱臼しやすい腕を抑えるための肩帯であり、もう一つは無職でアル中の兄である。主人公ジョウナはその重荷を甘んじて受けて生きているが、そこに生涯が立ちはだかる。ジョウナはどう対応するか。フランシス作品の魅力は、いつもこの小説のように主人公の対応の愚かさと見事さである。愚かさの方を嫌悪される読者もいるのかもしれないけれど、作者が描こうとしている愚かさは、ぼくにとっては彼ら主人公の美徳である。

 この作品もラストがいい。悲しいけれど充実がある。ラストシーンが常にハイライトであるのも、このシリーズの魅力である。ぼくは二十代でいったい何を読んだのだろう?

(1992.11.10)