そこに薔薇があった




作者:打海文三
発行:集英社 1999.4.30 初版
価格:\1,500

 マロリーの「そこに山があるから」に似せたタイトルの『そこに薔薇があった』。この本には騙される。まず本の構成に騙される。「この作品は『小説すばる』一九九六年八月号から一九九八年九月号まで断続的に掲載された」と最初に案内される。そのこと自体を疑ってかかるべきであった。

でも目次を開く。どう見ても短編集。読み始める。おやおや、これは純文学タッチの愛の物語の短編集かい。どうも打海文三らしからぬものがある。『『Rの家』に通じるような純文学ゴタク路線ならぼくはあまり読む気がしないな、というのがぼくの当初の感想。途中で投げ出すことも考えないではなかった。

どうも滅びてゆく男たちの物語なのかな。どれもが全部。色気のある女性との出逢いに始まり、ホラーじみた結末を迎える男たちの哀れ。なぜこんな短編集を書くのだろう。かと言って登場人物に共通項は見いだせない。場所も、物語も、タッチもすべてにおいて別々の物語。そのかわりどこか金太郎飴の味わい。どうも似ているなとの感覚。ある種の食傷。ほんとうに投げ出そうか。

少しずつ変容し始める。どうも順を追った短編集というのは珍しい。すべて発表時の原題が改題されているのも気に入らない。もともと、どの短編作品の原題もが、宮沢賢治の『春と修羅』から取られているらしい。ぼくの好きな詩集だ。こんな形でこの程度の作品に使用されたくはない。だから改題? こうしてこの一冊の本自体の謎が深まってゆく。それが実は罠であった。仕掛けられた罠。

ラストの一作がようやく説明を始める。いや、ラストの一作に限っては独立した短編小説というよりも、この一冊の短編集のすべてを繋ぐリングのような存在であり、独立してはいない唯一の作品であり、読者と本当の接着剤である。こんな仕掛けになっていたかと驚かされる一冊。まあ、作者のほくそ笑む顔が見えないこともない。しかし問題がある。当初の短編が納得のゆくものではないこと。その段階でこの本を投げ出した読者たちになんの救いも与えられないだろうということである。