ハルビン・カフェ


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作者:打海文三
発行:角川書店 2002.04.25 初版
価格:\1,800

 打海文三はいろいろな意味でジャンプすることが好きな作家だ。シリーズのように見せかけておいて、登場人物には共通性を持たせているくせに、作品間の繋がりはまるでない。作品から作品への異次元ワープといった印象を持たされてこちらは面食らうことこの上ない。それが狙いという作風でもあるのだと思う。

 しかし打海文三の際だったジャンプは『Rの家』。ジャンルのジャンプとも言える、ある意味とても打海らしい好き勝手なジャンプ。常に外に向かっていた攻撃的精神が内なるところに向けられて行って、極度までに閉ざされてゆくといった趣の作品であり、まるで読者を拒絶しているかのような表現であるようにも見える。少なくとも読者の側からの媚びは受け付けてくれそうにないのが、この打海文三という作家であるらしい。

 小説家が羨ましいと思うところは、小説家が好き勝手に一方通行の表現をしてしまえること。編集者の理解さえ得られればいいのかもしれない。世の読者に媚びるでもなく、世の読者の媚びを甘受するでもなく、世に背を向けておよそ書きたいことだけを書く。あとは書かない。

 この作家はよくジャンプするなあというイメージがあるのはその「書かない」ということによるところが大きい。たいていの人であれば表現してしまうところを思い切り端折る。それが打海の美学ではないだろうか。その端折りを世間並みに表現していたら、長大で大層な作品に化けてしまう。打海は実はてんこ盛りである内容を、わずかなページに込めてしまう作家である。大抵のことを書かずに端折って進めてゆくことによって。

本書『ハルビン・カフェ』は『Rの家』よりもさらに大きなジャンプであり、世の予想を遥かに覆してみせる意味でのある意味ルールからかけ離れたジャンプであるとも言える。奇妙なタイトル、奇妙な構想、奇妙なプロットに、奇妙な展開。誰も書いたことのない世界をつくり出し、打海の世界をそこで思うがままに展開することのために、背景すらも自分の思うように作る。サイレンサー付きのサブマシンガンを乱射するために作り上げた世界のようなものだ。

主人公は全く語ることなく、歴史や追跡者たちの多くに語らせる。何ともねじくれたその表現手法を作者が選択したがために、読者は難物を掴まされた感覚に陥ってゆく。作者の媚びを切り捨ててのわがままに読者が否応なくつきあってゆく。主人公も、まるでヒロインのような少女も自らは、さして表現をしない。饒舌な者たちの言葉のなかに埋もれてゆく影の支配者。神のような存在。途方もなく無法。それ以上にそこに作者の無法をぼくは感じてしまう。

 ある意味でたいへんに圧倒的な迫力を持った作品。ある意味でこれ以上ないほどに独創的で唯一無二。高村薫や花村萬月が書きたい放題に書いた名作群で受けたショックを、この作品もまた、ある種の人々に対して電撃的な衝撃をもたたすものだ。ぼくはこの作品以後と以前とにおける打海の明らかな変化を見つめている。なぜ『愛と悔恨のカーニバル』と『されど修羅ゆく君は』が同じシリーズなのか、そのジャンプの途方もなさに置き去りにされそうになった。この作品を読むと、以前、以降でのこの大きな差がより鮮明になってくる。

大きなジャンプに挑みつづけることを簡単にはやめそうもない作家である。日本にもこういう気骨のある作家がいるんである。何とも頼もしい限り。