灰姫 鏡の国のスパイ


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作者:打海文三
発行:角川書店 1993.5.25 初版
価格:\1,600

 打海文三を世に送り込むきっかけとなったのが、1993年、横溝正史賞で優秀作品賞を受賞したこの一作。この年、最優秀作品賞は該当作なく、小林博通『キメラ暗殺計画』と本作品と、選評は真っ二つに分かれた形となり、結果、両作品に優秀作品賞が与えられることになった。つまり、両作品とも、それなりに批判も強く寄せられたということだ。

 本書巻末の選評によると、読者を無視したわかりにくさ、物語への入りにくさが、誰の口からも上がっている。「小説というより国際諜報活動のレポートを読まされている気がした」とは、選者の一人森村誠一の言葉。

 後の打海文三作品の数々が、本書の解読マニュアルみたいなものなのだが、確かに白紙の状態でこの作品原稿を読まねばならなかった選者たちにしてみれば、この一冊は相当の難物であったろう。『ハルビン・カフェ』がある意味、難物であった、はるかそれ以上に。

 情報の錯綜が難物の一因でもあるけれど、人物たちの暗示に満ちた会話の応酬、身を削り落とした文体の過度な意味深さが、それに輪をかけて、読者の理解を拒む。状況を敢えて説明しようとしない打海文体は、この頃育まれていて、それがあまりにも過ぎているわけである。

 そうしたいわくつきの本書である。打海文体の個性は、いい意味でも本書では既に頭角を現わしている。例えば序章。この序章だけで読者はぐいっと何かに把まれて逃げられなくなるのではないか。そうした何ものかが既にあるわけだ。ウラジオストックの石畳に瀕死の重症を追った男が投げ出されている序章。

 しかし舞台は急転直下、日本の民間情報収集会社に飛ぶ。政治の裏や、戦後史の闇にも繋がっているらしい民間企業、というだけでも、後のアーバン・リサーチに繋がる何かがありそうなのだが、こちらは探偵会社ではなく、むしろ特務機関といった要素から、戦後の時代変遷の中で、徐々に独立性を増し、合法的民間私企業への変貌を遂げていった、不分明な組織体である。この説明だけで、異色。通常の娯楽小説読者にとってみれば、あまりにも高い敷居と感じられるに違いない。

 そうした怪しげな会社に勤務する群像が物語の主体だ。朝鮮半島のスパイ工作がテーマであり、アジア、東ヨーロッパに及び民族的謀略の深さを知るために、ひたすら歩き回る、偵的役の冴えない中年社員の日々を軸にして、ミステリが紡がれてゆく。

 小説の語り口としては、会話の中で、謎、ほのめかし、皮肉、冗談などが多すぎるために、真実が見えにくい。会話主流であるから、人物たちの行動は極端に少ない。どんなハードボイルドよりも、インタビューだらけの印象がある小説だ。謀略の大きい割にはアクションが少ない。緻密な企業内部の描写がほとんどであるため、キャラの立った登場人物が、頁数の割に多すぎるためか、かえって全体が混雑し、とても読みにくい。

 最優秀作が獲得できなかった理由は、まさにその読みにくさという部分に集約されると思う。その後、この作家は『時には懺悔を』という、実に読みやすく、素晴らしいハードボイルドでわれわれを唸らせてみせた同じ人である。さらに『ハルビン・カフェ』でその際立った個性を輝かせてみせたのである。

 そういうこの作家への予測が、この一冊からはつきにくい。磨かれないままの原石としての魅力は、ふんだんに湛えつつも、何か読者を寄せつけがたい鎧を身に纏った、風変わりな失敗作なのだと思う。絶版になっているという事実も、納得のゆく話である。興味と忍耐力のある方にしかオススメはできない。
最終更新:2007年01月05日 00:21