ボストン、沈黙の街




題名:ボストン、沈黙の街
原題:Mission Flats (2003)
作者:ウィリアム・ランデイ William Landay
訳者:東野さやか
発行:ハヤカワ文庫HM 2003.09.30 初版
価格:\1,000



 装丁や広告で謳っているほどに派手な作品ではない。出版社が目論むほどの売上が期待できるかというと、その手の(ディーヴァーやグリシャムのような)メジャーに乗ってゆく作品というわけでも別にない。思いのほか地味で、静かな作品である。

 ボストンという街に対して抱くわれわれの犯罪イメージがどの程度を考えた場合、やはりそれはニューヨークやマイアミといったよく知られる組織犯罪のエリアには遠く及ばない気がする。かろうじてロバート・B・パーカーがスペンサーシリーズで描いてきたボストンのイメージから、大学や芸術や品のいい街という表の顔の向こうに、ホークやヴィニイ・モリスの生きる暗黒街が影のように従って見えるに過ぎない。

 この物語の主人公はおまけにボストンの人間ではない。ボストン生まれの母と田舎町ヴァーセイルズ(架空の町)の警察署長であった父の間に生まれ、ボストンで大学教授を目指してアカデミックな世界に身を置いていた主人公は、アルツハイマー病に冒された母のために故郷に帰り、引退した父の後を継いで警察署長へ転身してる。

 ヴァーセイルズの湖畔で起きた殺人事件。被害者は地方検事。犯人は地方検事が調べていたボストンのギャングらしい。主人公はボストンへ乗り出す。引退した警察官であるケリーと二人連れで。捜査のいろはを教えられ、育ちながら。田舎の父親との電話ケーブル越しの葛藤を感じながら。母の思い出に胸をふたがれながら。恋をしながら。銃撃を浴びながら。

 なぜこれほど複雑な物語が一人称で語られるのだろうかとの疑問が最初からあった。一人称文体には限界がある。あまりにも長く深い物語はある意味では一人称では持たないところがあるという気がする。なのに、本書は徹底した一人称文体で語られる。主人公本人とは遠いところの物語まで伝聞の形で。そこに無理を感じた。どうしてだろうとの疑問が何度も繰り返された。実はそれこそがこの作品の核心部分であることを、別のどこかで幽かに感じながら。

 三人称はある程度公平を期した文体にならざるを得ないが、一人称には作為をこめることができる。作家の作為ではなく、主人公の作為を。そこに既に小説としての技術を盛り込むことができる。それが謎やトリックのサイドで使われることは現に少なくないと思う。しかしそれを主人公の心理の奥底に向かう形で敢えて使ってゆく本書のスタイルはけっこう珍しいものであるかもしれない。

 主人公の田舎町から逃げ出したいという渇望や、ボストンにまで事件を追って出かけてゆく衝動、父との会話の破片に見られる不確かさ、周囲の警察官たちへの疑念や、納得し難い態度。すべてが一人称文体に引きずられてゆく。じわじわと染み出してくる主人公の内部の湿潤部分。じっくりと読んでゆく楽しさはあり、最後の最後まで生真面目で誇り高い文章。事件はアガサ・クリスティーのように一堂に集まった関係者に説明なんてされない。事件は永遠に謎であり、人間そのものの内部にある。そういった主人公の独白が最後までぴりっと効いてくる。本書は皮肉な真相への暗い道程を描いた作品であって、主人公の最後の選択についてどう捉えるべきか、読者はきっと迫られることになると思う。

(2003/10/05)
最終更新:2007年07月14日 23:11