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*散る花もあり #amazon(4061840010,right,text,image)  競馬シリーズの合間を縫いながらも、C君の志水辰夫評に感化され、読み残していたこの作品を手に取ってみたのだ。読み残していたのはこの本がなかなか手に入らなかったからで、実は最近入手したばかりである。『行きずりの街』があれだけ話題になった中で、見直されるべき志水初期作品を再版する気もないのなら、さっさと版権手放してしまえばいいのだよなあ>講談社(;_;)  それにしても、本書の解説は関口苑生氏の手になっていて、去年の夏ぼくらFADV有志が海水浴付き大宴会に繰り出した和歌山の屋敷のことや、そこで出会った志水辰夫氏の思い出等が書かれていて、なんか身近なんですね、この本(^^;)  さて今回はひさびさに志水作をすが目で見つめてみようということに決めつけ、なんかあら捜しをしようという、否定的な思いでこの本を読み出したのである。何せぼくとしては大して買ってはいなかった『行きずりの街』が、谷甲州氏の愛しき大作『遥かなり 神々の座』を下してその年の冒険小説大賞に輝いたのがどうしても解せなかった(;_;)ので、みんな、志水辰夫を愛するのはわかるけど、もっと冷静に作品を評価したらいいじゃないのさ、過去の実績までプラスアルファするこたあないじゃないのさ……くらいの気持ちはずっと持っていたわけである。だからきゃれらの『行きずりの街』へのストレートな批判は、ぼくとしては内心とても痛快であったわけで、ようし何とかぼくも批判してやれというつもりでこの本を読み出してみた次第。  すると、あった、あった。批判すべき箇所。志水作品の臭みであり、ぼくの一番嫌いな場所。それは一言でいえば会話の臭さなのであった。会話にしては文語調で理屈っぽすぎる点が第一。実際のところ、人間、普段からあんなにお互い主張し合っているものだろうか? 第二は冗談が古臭い。なんか出てくる人がひっくるめて年寄り臭い感性でありすぎ、逆に大沢在昌作品に出てくるような軽佻浮薄ギャル(この方が現実には多いぜ(^^;))が懐かしくなってしまうほどなのである。誰もそんなに人生人生って言っていないような気がするのですね。それに文体と会話の科白(会話中の文体と言うべきか)が似すぎている点も気になった。こうしてみると、とりわけ花村萬月辺りの会話のうまさに慣れてしまうと、志水作品は会話はどうもイマイチですね。どうせひたすら感情移入の文体なんだから、主人公の独白内で済ませておいたほうがいいような科白は、あえて会話中に散りばめるともあるまいと、正直思った。  さらに言えば、この作品では馬鹿なサラリーマンの悔いに満ちた科白(=つまり言い訳)が二人分、二ヶ所も出てくるんだけど、やはり聞いてられない程定型化した言い草なのだ(^^;) 立場こそ違え同じ人ではないか、これでは(^^;) 以上、一番気になった箇所。  と末梢のことはこれくらいだが、考えてみれば志水作品にはどれにも共通したことであった。『裂けて海峡』がイマイチぼくの中で評価低いのも、老人との会話が逆に古い冗談に満ちていて感性がついて行ってくれないからであった(逆にそれがいいという人も多いんでしょうけど)。むしろ初老の女性(志水作品には付き物と言えますね)の決めつけるような一方的な会話の方が(当然この作品にも出てくる場面だ)女性らしさ・母らしさに満ちていてぼくは納得が行ったりする。概して言えるのは、人物がすべて似通い、類型化された傾向にある点で(例えばほとんどの人がまじめで真摯な会話を好むみたいだ)、この辺は志水辰夫作品の中で最も改良の余地があるのかもしれないと改めて思ったりしたのである。  ところで、ぼくのここまでの散々なすが目にも関わらず、この作品は実はぼくの心をすっかり捉えてしまったのです(^^;) 作品というのは読み終わってナンボだと思う。関口さんも書いているけどこの本には素晴らしいラストシーンが用意されていて、ちょっとこれは、ここまでのぼくの屁理屈をすべて投げ棄ててもいいくらいの逆転満塁ホームランで、いかにも志水節が効いている。『裂けて海峡』も『尋ねて雪か』もそして本作も、ラストの数行はちょっと他の作家には期待できない志水節独特のものがあります。こっちの情感をぐっと掴んで引っ張っていてしまうその力は凄いや。ラストシーンで声なく泣きたい方にはやはり志水辰夫はオススメであるのだ。  なんか気合が入ってしまったなあ(^^;) 結局、志水が好きなんだ(^^;) (1992.02.21)
*散る花もあり #amazon(4061840010,right,text,image) 題名:散る花もあり 作者:志水辰夫 発行:講談社文庫 1987.6.15 初刷 価格:\400(本体\388)  競馬シリーズの合間を縫いながらも、C君の志水辰夫評に感化され、読み残していたこの作品を手に取ってみたのだ。読み残していたのはこの本がなかなか手に入らなかったからで、実は最近入手したばかりである。『行きずりの街』があれだけ話題になった中で、見直されるべき志水初期作品を再版する気もないのなら、さっさと版権手放してしまえばいいのだよなあ>講談社(;_;)  それにしても、本書の解説は関口苑生氏の手になっていて、去年の夏ぼくらFADV有志が海水浴付き大宴会に繰り出した和歌山の屋敷のことや、そこで出会った志水辰夫氏の思い出等が書かれていて、なんか身近なんですね、この本(^^;)  さて今回はひさびさに志水作をすが目で見つめてみようということに決めつけ、なんかあら捜しをしようという、否定的な思いでこの本を読み出したのである。何せぼくとしては大して買ってはいなかった『行きずりの街』が、谷甲州氏の愛しき大作『遥かなり 神々の座』を下してその年の冒険小説大賞に輝いたのがどうしても解せなかった(;_;)ので、みんな、志水辰夫を愛するのはわかるけど、もっと冷静に作品を評価したらいいじゃないのさ、過去の実績までプラスアルファするこたあないじゃないのさ……くらいの気持ちはずっと持っていたわけである。だからきゃれらの『行きずりの街』へのストレートな批判は、ぼくとしては内心とても痛快であったわけで、ようし何とかぼくも批判してやれというつもりでこの本を読み出してみた次第。  すると、あった、あった。批判すべき箇所。志水作品の臭みであり、ぼくの一番嫌いな場所。それは一言でいえば会話の臭さなのであった。会話にしては文語調で理屈っぽすぎる点が第一。実際のところ、人間、普段からあんなにお互い主張し合っているものだろうか? 第二は冗談が古臭い。なんか出てくる人がひっくるめて年寄り臭い感性でありすぎ、逆に大沢在昌作品に出てくるような軽佻浮薄ギャル(この方が現実には多いぜ(^^;))が懐かしくなってしまうほどなのである。誰もそんなに人生人生って言っていないような気がするのですね。それに文体と会話の科白(会話中の文体と言うべきか)が似すぎている点も気になった。こうしてみると、とりわけ花村萬月辺りの会話のうまさに慣れてしまうと、志水作品は会話はどうもイマイチですね。どうせひたすら感情移入の文体なんだから、主人公の独白内で済ませておいたほうがいいような科白は、あえて会話中に散りばめるともあるまいと、正直思った。  さらに言えば、この作品では馬鹿なサラリーマンの悔いに満ちた科白(=つまり言い訳)が二人分、二ヶ所も出てくるんだけど、やはり聞いてられない程定型化した言い草なのだ(^^;) 立場こそ違え同じ人ではないか、これでは(^^;) 以上、一番気になった箇所。  と末梢のことはこれくらいだが、考えてみれば志水作品にはどれにも共通したことであった。『裂けて海峡』がイマイチぼくの中で評価低いのも、老人との会話が逆に古い冗談に満ちていて感性がついて行ってくれないからであった(逆にそれがいいという人も多いんでしょうけど)。むしろ初老の女性(志水作品には付き物と言えますね)の決めつけるような一方的な会話の方が(当然この作品にも出てくる場面だ)女性らしさ・母らしさに満ちていてぼくは納得が行ったりする。概して言えるのは、人物がすべて似通い、類型化された傾向にある点で(例えばほとんどの人がまじめで真摯な会話を好むみたいだ)、この辺は志水辰夫作品の中で最も改良の余地があるのかもしれないと改めて思ったりしたのである。  ところで、ぼくのここまでの散々なすが目にも関わらず、この作品は実はぼくの心をすっかり捉えてしまったのです(^^;) 作品というのは読み終わってナンボだと思う。関口さんも書いているけどこの本には素晴らしいラストシーンが用意されていて、ちょっとこれは、ここまでのぼくの屁理屈をすべて投げ棄ててもいいくらいの逆転満塁ホームランで、いかにも志水節が効いている。『裂けて海峡』も『尋ねて雪か』もそして本作も、ラストの数行はちょっと他の作家には期待できない志水節独特のものがあります。こっちの情感をぐっと掴んで引っ張っていてしまうその力は凄いや。ラストシーンで声なく泣きたい方にはやはり志水辰夫はオススメであるのだ。  なんか気合が入ってしまったなあ(^^;) 結局、志水が好きなんだ(^^;) (1992.02.21)

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