「アフターダーク」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

アフターダーク」(2007/12/09 (日) 01:24:43) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

*アフターダーク #amazon(406275519X,left,image) #amazon(4062125366,image) 題名:アフターダーク 作者:村上春樹 発行:講談社 2004.09.07 初版 価格:\1,400  村上春樹を読むときのぼくは、実は自分の読書の原点に回帰してゆくような気がしてならない。あまり普段は意識していないことなのだが、ぼくの圧倒的に好きなタイプの作家は基本的に文章がとても上手で、文体がたまらなく快い作家だということ。国産小説には特にそれを求める気持ちが強いために、どんなにテーマが斬新でアイディアが豊富でストーリーがこまやかであろうと、日本語の美しさにこだわらない作家は自分にとって駄目だということだ。  という原点に立ち返って自分の読書傾向を振り返ると、それはより明白な事実となって浮かび上がってくる。日本語の美しい作家に明らかに傾倒している自分がいるという事実。その意味で純文学からスタートしている自分の読書人生は散文的なものをこよなく愛しながらもどこかで韻文的な詩へのこだわりを保ち続けているような気もする。かつてランボォのフレーズに麻痺したようになっていた自分の一時代を振り返ると、そこには堀口大学や金子光晴の訳文としての日本語の魅惑がうずいていたような気もする。  今でもそれは日本小説に求めることであり、同時に翻訳小説でも、小鷹信光が訳したジェイムズ・クラムリーの文章の美しさを日本語として味わいづくし、やがてそこに酔って沈潜して行く自分が見える。菊池光のヒギンズ、清水俊二のチャンドラー、小鷹ハメット、多くの日本語の美しさにとらわれることによってぼくはハードボイルドという国境に足を踏み入れた。何よりもそれが発端であったのだと、いまさらながたに気づく。  それを気づかされるのは、矢作であり、村上春樹である。とりわけ村上春樹はハードボイルド作家ではないし、書かれる内容は甘くもあり怖くもありで、ストーリーなどなきに等しいにも関わらず、いつも魅かれてやまないものをそこに感じる。文章の美しさ、さりげなさ、自然さ、表現の気取らなさ、それでいてスケールの大きなイメージ。奇妙さ、独自さ、何よりもそれらを表現してゆくリズム感。  すべてが調和したような感覚で味わうことのできる小説を村上春樹という作家はもう既に何本も書いてきた。文壇の評価をさして得るでもなく、ただただ多くの日本語を使う人々によってやたらと読まれてきた作家である。散文的であり平易な文章でありながら難解極まりない作品をものする作家として。風変わりであることを頑なさで鎧って。海外翻訳小説のようなリズムで。独自に。  本書はページ数のわりに活字が大きく、まるで少年小説のようなテンポで読むことができる。内容は深夜を過ぎてから朝までのほんの数時間。リアリティに刻まれたマリの時間と、ヤミクロに侵されたかのようなエリの眠り姫的世界。まるで『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のように二つの物語は遠く隔たっているかに見える。その距離感を描くために、視点はまるで衛星からの画像のように遠のき、そして近づく。ほしいままに動き回る心の自由のように。  いつもあるなにがしかの驚きが、やはり村上春樹の新作にはどこかに仕掛けられている。そんな驚きをどこに発見してゆくのか、それもいつものとおり読者の側にゆだねられている。あくまで回答のない小説をただよい続ける村上ワールドだからこそ、際限もなく展開し続ける。空気のようでありながら極めて濃密である存在感。小説の不思議さを最も尖らせたような作品……とぼくは思う。 (2004.11.09)
*アフターダーク #amazon(406275519X,left,image) #amazon(4062125366,image) 題名:アフターダーク 作者:村上春樹 発行:講談社 2004.09.07 初版 価格:\1,400  村上春樹を読むときのぼくは、実は自分の読書の原点に回帰してゆくような気がしてならない。あまり普段は意識していないことなのだが、ぼくの圧倒的に好きなタイプの作家は基本的に文章がとても上手で、文体がたまらなく快い作家だということ。国産小説には特にそれを求める気持ちが強いために、どんなにテーマが斬新でアイディアが豊富でストーリーがこまやかであろうと、日本語の美しさにこだわらない作家は自分にとって駄目だということだ。  という原点に立ち返って自分の読書傾向を振り返ると、それはより明白な事実となって浮かび上がってくる。日本語の美しい作家に明らかに傾倒している自分がいるという事実。その意味で純文学からスタートしている自分の読書人生は散文的なものをこよなく愛しながらもどこかで韻文的な詩へのこだわりを保ち続けているような気もする。かつてランボォのフレーズに麻痺したようになっていた自分の一時代を振り返ると、そこには堀口大学や金子光晴の訳文としての日本語の魅惑がうずいていたような気もする。  今でもそれは日本小説に求めることであり、同時に翻訳小説でも、小鷹信光が訳したジェイムズ・クラムリーの文章の美しさを日本語として味わいづくし、やがてそこに酔って沈潜して行く自分が見える。菊池光のヒギンズ、清水俊二のチャンドラー、小鷹ハメット、多くの日本語の美しさにとらわれることによってぼくはハードボイルドという国境に足を踏み入れた。何よりもそれが発端であったのだと、いまさらながたに気づく。  それを気づかされるのは、矢作であり、村上春樹である。とりわけ村上春樹はハードボイルド作家ではないし、書かれる内容は甘くもあり怖くもありで、ストーリーなどなきに等しいにも関わらず、いつも魅かれてやまないものをそこに感じる。文章の美しさ、さりげなさ、自然さ、表現の気取らなさ、それでいてスケールの大きなイメージ。奇妙さ、独自さ、何よりもそれらを表現してゆくリズム感。  すべてが調和したような感覚で味わうことのできる小説を村上春樹という作家はもう既に何本も書いてきた。文壇の評価をさして得るでもなく、ただただ多くの日本語を使う人々によってやたらと読まれてきた作家である。散文的であり平易な文章でありながら難解極まりない作品をものする作家として。風変わりであることを頑なさで鎧って。海外翻訳小説のようなリズムで。独自に。  本書はページ数のわりに活字が大きく、まるで少年小説のようなテンポで読むことができる。内容は深夜を過ぎてから朝までのほんの数時間。リアリティに刻まれたマリの時間と、ヤミクロに侵されたかのようなエリの眠り姫的世界。まるで『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のように二つの物語は遠く隔たっているかに見える。その距離感を描くために、視点はまるで衛星からの画像のように遠のき、そして近づく。ほしいままに動き回る心の自由のように。  いつもあるなにがしかの驚きが、やはり村上春樹の新作にはどこかに仕掛けられている。そんな驚きをどこに発見してゆくのか、それもいつものとおり読者の側にゆだねられている。あくまで回答のない小説をただよい続ける村上ワールドだからこそ、際限もなく展開し続ける。空気のようでありながら極めて濃密である存在感。小説の不思議さを最も尖らせたような作品……とぼくは思う。 (2004.11.09)

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: